備後 神辺城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②二の丸から本丸

イメージ 3③井戸跡

イメージ 4④鬼門櫓跡

イメージ 5⑤三番櫓跡

イメージ 6⑥毛抜堀

 

訪問日:2015年9月

 

所在地:広島県福山市

 

 宿泊予定の広島までまだ時間があるので、神辺城に立ち寄ることにした。福島正則領の西端の亀居城に明朝訪問する予定なので、東端の神辺城というわけだ。

 

 しかし隣の山の資料館は整備されているものの、肝心の城跡は9月とはいえ雑草が生え放題で、近世城郭の城跡のはずだが、まさに荒城だった。

 

 福島正則は永禄4年(1561)桶屋を営む市兵衛と後の豊臣秀吉の叔母(後の松雲院)との間に生まれたといわれ、秀吉との縁でこれに仕え、天正6年(1578)三木合戦で初陣を飾り、200石を与えられた。

 

 天正10年(1582)山崎の戦いにおける勝龍寺城攻めの功で500石になり、翌天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで一番槍・一番首の大功により、七本槍の中で最高の5千石を与えられた。

 

 小牧・長久手の戦い、紀州攻め、四国征伐など秀吉の戦いに従い、天正15年(1587)九州平定後に伊予今治(国府城)11万石の大名となった。

 

 小田原征伐では織田信雄を主将とする韮山城攻撃に加わり、文禄の役で朝鮮に渡った。文禄4年(1595)豊臣秀次事件では高野山に赴き検使として切腹の命令を伝え、これに抵抗する木食上人を説得し、秀次の首を持ち帰った。

 

 同年、尾張清州城に24万石に加増の上移封された。慶長の役には結局参加しなかったが、秀吉は慶長4年(1599)正則・石田三成・増田長盛を大将とする大作戦を予定していたものの、その死により実現しなかったという。

 

 慶長4年(1599)加藤清正らとともに三成を襲撃するという事件を起こし、同年には養子の福島正之の妻に徳川家康の養女・満天姫を迎え、家康に接近する。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍の主力として岐阜城を落とし、本戦では先鋒として戦功を挙げ、毛利輝元から大坂城を接収し、戦後、毛利領の一部・安芸と備後の49万8千石を与えられた。

 

 正則は毛利元就の8男・元康が領していた(元康の本拠は王子山城)神辺城に筆頭家老の福島正澄を3万石で置き、城の大改修を実施した。

 

 

以下、現地案内板より

 

 神辺平野を一望することができる場所に築かれた神辺城跡は、室町時代初め頃に築かれた山城で、山頂や尾根を削って平坦にした郭が約25個確認されています。郭には建物や土塀が建てられ、城を守るために造られた石垣や空堀、井戸の跡も残っています。
 山城は戦の時に立て籠もる施設で、城主は日常は麓の平地に館を造って住んでいました。現在の広島県立神辺高等学校のあたりは古屋と呼ばれ、城主の館を中心に武士の屋敷があったと考えられています。
 以後、江戸時代の初めまで約300年間にわたって備後地方南部の拠点として威光を誇っていました。

 

神辺町観光協会

 

 

 神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2(1335)年築城したと伝えられています。以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼天山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづきそれぞれ守護代が居城しています。
 戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。
 元和5(1619)年の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に280数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。

 

1998(平成10)年3月  神辺町観光協会