備前 明禅寺城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①恩徳寺からの遠景

イメージ 2②主郭

イメージ 3③主郭虎口

イメージ 4④虎口の巨石石積

イメージ 5⑤主郭周辺の石積

イメージ 6⑥主郭周辺の石積

 

訪問日:2015年9月

 

所在地:岡山市中区

 

 永禄9年(1566)宇喜多直家は美作に侵攻した備中松山城主・三村家親に刺客を放ち、遠藤秀清・俊通兄弟は興善寺にてその銃殺に成功する。

 

 翌永禄10年(1567)家親の跡を継いだ三村元親が親の敵とばかりに備前に侵攻し、直家が前年に築いていた明禅寺城に夜襲をかけてこれを落とした。

 

 これに対し、直家は先に三村氏に降伏していた岡山城主・金光宗高、中島城主・中島元行と舟山城主・須々木豊前守を調略して明禅寺城を孤立させる。

 

 直家の降伏勧告を拒否した妙禅寺城の三村軍は本国に救援を要請し、元親は1万余で出陣する。一方、直家は5千余で沼城を出陣、元親軍の到着前に明禅寺城を攻略する。

 

 明禅寺城の後詰に失敗した三村軍は先鋒の荘元祐(元親の兄)が直家軍の先鋒隊に敗れたことから終始後手に回ることとなり、本隊同士の決戦にも敗れて大混乱に陥り、元親は備前から撤退した。

 

 これにより直家は浦上家中での権勢がさらに高まり、その発言力とともに独立性をも持つようになり、戦国大名としての地位を確立していく。

 

 ひとまず予定していた直家ゆかりの城を5つ攻略に成功、さすがに疲労は隠せないが、時間はまだありそうなので、宿所の広島に行く前にもう1か所寄り道することとする。

 

 

以下、現地案内板より

 

知ってる 明禅寺城跡

 

 この城跡から東に約8km離れた地に所在していた亀山城(岡山市 沼)を居城にして、戦国大名への成長期にあった宇喜多直家が、永禄9年(1566)年に岡山平野と西隣りの備中国への備えに築いた前衛基地の出城である。翌年に備前国への侵攻を図った備中国の三村勢に占領されたが、宇喜多直家は奪還を果たすとともに三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝振りが明禅寺崩しと呼ばれた。
 城構えは、操山山頂から北に延びた尾根の頂部に、背後(南側)に一段の腰曲輪を伴う中心部(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心部(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっている。城郭の構築は、各郭とも土段築成で、現状では郭の段取りと背後を遮断する堀切りが遺構として確認できる程度であり、上部の建築物は柵や掘立柱建物を主体にした臨戦用城砦の構造であったと考えられる。