陸奥 宮床館(田手岡館) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①田手岡館跡碑

イメージ 2②堀跡

 

訪問日:1998年4月

 

所在地:宮城県黒川郡大和町

 

 仙台藩2代藩主・伊達忠宗の8男・宗房は一族の田手高実の婿養子となり、江刺郡上口内を領したが、高実の実子・貞実が元服すると名跡を譲り、伊達姓に戻って別家を興し、万治3年(1660)黒川郡宮床を拝領し、寛文6年(1666)居館を構えた。

 

 貞享3年(1686)宗房が41歳で亡くなり、7歳の嫡男・助三郎が家督を相続、元禄3年(1690)元服して仙台藩4代藩主の綱村から偏諱を賜り、村房と名乗った。

 

 元禄6年(1693)財政悪化を招いた綱村中心の専制政治に対し、伊達一門が諫言書を提出し、綱村は謝罪状を認めるという事態となるが、若年の村房は名を連ねていない。

 

 元禄8年(1695)支藩・一関藩主の田村建顕の養嗣子に迎えられ、弟・村興に家督を譲るが、正式に幕府に届け出る前に嗣子のいない綱村の養嗣子に迎えられることとなった。

 

 元禄9年(1696)将軍・徳川綱吉から偏諱を賜り、吉村と改名し、元禄16年(1703)綱村が隠居に追い込まれて5代藩主となった。

 

 仙台藩の財政は綱村が発行した藩札の回収、正徳元年(1711)日光東照宮の普請を命じられるなど極めて厳しいものであった。

 

 吉村は財政再建のため、数々のリストラ策を繰り出したが、領内総検地が失敗に終わるなど苦難の連続であった。

 

 享保17年(1732)西日本の冷夏がもたらした享保の大飢饉が発生すると、奥州は豊作だったためこれを江戸に送って大きな利益を上げたことから財政は一気に改善した。