播磨 姫路藩飾磨砲台 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①船溜り

 

訪問日:2002年4月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 江戸幕府最後の大老となった酒井忠績は姫路藩分家の旗本の家に生まれたが、本家に嗣子なく、万延元年(1860)本家の家督を相続した。

 

 文久2年(1862)上洛して京都守衛と京都所司代臨時代行の任にあたり、その功績により、文久3年(1863)老中首座となり、兵庫港開港をめぐり、朝廷対策に奔走した。

 

 一方で姫路藩でも尊王論が台頭してくるが、譜代の臣として幕府と存亡をともにするのが道として、元治元年(1864)には重臣・河合屏山を幽閉して多数の尊皇派を粛清した(甲子の獄)。

 

 慶応元年(1865)大老に就任し、第二次長州征伐の事後処理や幕府軍の西洋式軍制の導入などの幕政改革に尽力した。

 

 慶応3年(1867)に家督を弟の忠惇に譲って隠居する。忠惇は翌年の鳥羽・伏見の戦いに徳川慶喜に従って大坂退去に同道したため、姫路藩は朝敵となり、官軍による討伐対象とされ、かつて姫路城を築城した池田氏の岡山藩に無血開城した。

 

 忠惇の官位は剥奪され、忠績とともに江戸藩邸で降伏した。しかし、徳川の臣であることにこだわる忠績は、天皇家の臣として主家の横に並ぶことを拒んで所領没収を望む嘆願書を江戸の大総督府に提出する。

 

 姫路藩では忠惇に替り、分家の伊勢崎藩から酒井忠邦が藩主となり、軍資金15万両を新政府に献上することで藩存続は許されたが、忠績と忠惇は佐幕派の態度を変えなかった。

 

 新政府は家老・高須隼人や前述の重臣河合屏山に佐幕派の粛清を求め、4名の家臣が自害するなどの結果となった。忠績・忠惇は静岡藩預りとなる。

 

 明治元年(1868)河合の進言により、姫路藩は諸藩に先駆けて版籍奉還の建言書を提出する。