淡路 徳島藩炬口台場 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①石垣と土塁

イメージ 2②石垣と土塁

イメージ 3③石垣と土塁

 

訪問日:2013年3月

 

所在地:兵庫県洲本市

 

 炬口台場は文久3年(1863)徳島藩洲本城代の稲田氏が築いた。

 

 当時の徳島藩主・蜂須賀斉裕は11代将軍・徳川家斉の22男で、幕府の文久の改革により、文久2年(1863)には初の陸軍総裁に就任し、海軍総裁も兼任したが、すぐに辞任した。

 

 洲本城代の稲田植乗は斉裕の命により、嘉永7年(1854)由良・岩屋に砲台を築いた。安政年間に京都に派遣した家臣たちが勤皇の志士たちと交流したことから、稲田家は主家と異なり、勤皇派として独自の行動をとるようになる。

 

 植乗は万延元年(1860)36歳で亡くなるが、跡を継いだ従兄弟の植誠も文久2年(1862)江戸に出府して斉裕に勤皇を訴え、翌年には孝明天皇より勤皇を賞されて天杯を賜っている。

 

 元治元年(1864)禁門の変では皇居を守護し、同年の長州征伐にも藩の先鋒として出陣したが、翌慶応元年(1865)22歳で亡くなり、植乗の子・邦植が跡を継いだ。

 

 江戸幕府が瓦解すると、邦植は藩の裁可を得ずに早々に新政府に帰順し、鳥羽・伏見の戦いでは皇居・日の御門を守備し、高松藩征討や有栖川宮熾仁親王の護衛などを務めた。

 

 これらの行動は、主家との対立を深める結果となり、明治3年(1870)の庚午事変に発展し、その結果淡路島は兵庫県の帰属となり、新政府より北海道静内郡、色丹島、その後新冠郡を与えられ、開拓を命じられる。

 

 明治6年(1873)邦植は家族とともに静内に移住し、明治10年(1877)の西南戦争では東京に出陣した。明治12年(1879)陸軍少尉となり札幌に在任したため、弟の邦衛に静内での実務を譲り、明治28年(1895)静内の土地・建物を邦衛に譲って徳島県に引退した。

 

 稲田氏の家臣たちの北海道開拓の物語は2005年公開の映画「北の零年」に描かれているが、この中で稲田氏の殿はすぐに帰国したようになっているが、史実とは異なるようだ。