ベルギー アントワープ(Belgium Anvers) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①聖母大聖堂

イメージ 2②聖母大聖堂

イメージ 3③内部(キリストの登架)

イメージ 4④寺院内部

イメージ 5⑤市庁舎

イメージ 6⑥ギルドハウス群

 

訪問日:2013年8月

 

所在地:ベルギー アントワープ

 

 日本人には19世紀イギリスの作家ウィーダが書いた「フランダースの犬」の最期の舞台として知られ、ネロがあこがれたルーベンスの祭壇画を見ることができる。

 

 ルーベンスの父・ヤンはプロテスタントの法律家で、1568年、迫害から逃れるためアントワープからドイツ・ケルンに妻・マリアとともに逃れてきた。

 

 ドイツに逃れていたオラニエ公ウィレム1世(19世紀のネーデルラント国王とは別人)の妃・アンナの法律顧問そしてその愛人となり、これが発覚して投獄されたが、後に釈放された。

 

 1577年、マリアとの間にルーベンスが生まれるが、ヤンは1587年に亡くなり、一家はアントワープに戻り、ルーベンスはカトリックとしての教育を受けた。

 

 しかし、生活は苦しく1590年、13歳で小姓に出されるが、そこで芸術的素養を見いだされ、同地の主要な画家たちに師事して、1598年に修行を終え、芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となった。。

 

 1600年、ルーベンスは推薦状を携えてイタリアに渡り、マントヴァ公ヴィンチェンツォの援助を受け、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどの作品に触れ、その影響を受けた。

 

 1603年、マントヴァ公からスペイン王フェリペ3世への贈答品を携え、外交官としてスペインを訪問、外交官としても活躍するルーベンスの最初の仕事であった。

 

 1604年イタリアに戻ったルーベンスはイタリア中を転々としながら、肖像画や祭壇画を書き残しているが、1608年、母・マリアが病に倒れたと聞き、アントワープに戻る。しかし、その死には間に合わなかった。

 

 1609年からの12年間はスペインとネーデルラントの間で起こった80年戦争の休戦期で、スペイン領ネーデルラント君主のアルブレヒト7世やその妻のスペイン王女イサベルの宮廷画家となり、また特使や外交官としての役割もイサベルが亡くなる1633年まで続いた。

 

 この間に、地元の有力者の娘イザベラと結婚(1609年)し、そして聖母大聖堂の祭壇画「キリスト昇架」(1610年)「キリスト降架」(1611-1614年)や、「聖母被昇天」(1625-1626年)を描き上げている。

 

 1621年、80年戦争の休戦期が終わると、ルーベンスは画家と外交官という2足の草鞋?で、スペインとネーテルラントの和平のためスペインやイングランドの王宮を何度も往復するなど奔走した。1624年にスペイン王フェリペ4世から、1630年にはイングランド王チャールズ1世からナイト爵を授かっている。

 

 妻・イザベラに先立たれた53歳のルーベンスは1630年、16歳のエレーヌと再婚、彼女をモデルとした多くの作品を描き残している。

 

 1635年、ルーベンスはアントワープ郊外に土地を購入し、その中のステーン城などで晩年を過ごした。「早朝のステーン城の風景」という作品がロンドンのナショナル・ギャラリーに残されている。聖母大聖堂の近くにもステーン城があるがこれは別物である。

 

 1640年にルーベンスは亡くなっている。