豊後 日出城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台

イメージ 2②本丸

イメージ 3③眺望

イメージ 4④望海櫓跡

イメージ 5⑤虎口

イメージ 6⑥復元図

 

訪問日:2002年5月

 

所在地:大分県速見郡日出町

 

 木下家定の3男・延俊も秀吉に仕えて500石を領し、父が城主である姫路城の城代を務めていた。関ヶ原では東軍に属して姫路城を守り、東上してきた弟・小早川秀秋の入城を拒んだ。

 

 本戦の後、義父・細川幽斎の丹後田辺城を攻めた西軍の小野木重勝の福知山城を義兄の細川忠興とともに攻略して重勝を自刃に追い込んだ。

 

 戦後、豊後日出に3万石を与えられ、日出城を築城した。大坂の陣、さらに寛永14年(1637)島原の乱では61歳で出陣している。

 

 寛永19年(1642)江戸で亡くなった。

 

 

以下、現地案内板より

 

暘谷城趾

 

 慶長6年(1601)日出藩初代藩主木下延俊は、姫路より移封入国すると、直ちに築城にかかり、翌年8月には大方の普請ができ入城した。城の縄張り(設計)は義兄の細川忠興が行ない、石垣の構築は家臣で築城の名手穴生理右衛門が野面積で築き、木材、鹿鳴越の大木を用いたといわれる。天守閣は三層、二層の櫓5ヶ所、平櫓1ヶ所あり、小城ながら堅城であった。3代藩主木下利長が中国古書淮南子より引用して暘谷城と命名した。
 二の丸、三の丸を設け、外郭には家臣の住宅や民家をとり入れた。明治7年(1874)大分県は城内建物を競売に付し取こわしたが、その一つの隅櫓は買却され、町内仁王地区に残っている。
 本丸下の海岸は俗に城下海岸と呼ばれ、眺望絶佳、大分県百景、別府八景の一つに指定されている。この海中の真清水が湧く一帯は「城下かれい」の名でしられるマコガレイの棲息地となっている。
              
町史跡 昭和35年10月17日指定