信濃 伊豆木陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①書院

イメージ 2②書院

イメージ 3③虎口石垣

イメージ 4④専照寺•移築太鼓門

 

訪問日:2000年8月

 

所在地:長野県飯田市

 

 伊那小笠原氏の本庄城主小笠原信嶺の弟で、交代寄合旗本として1000石を与えられた小笠原長巨が慶長5年(1600)に伊豆木陣屋を築いた。当初は伊那郡10万石の新領主が定まらず、長巨が預かった。

 

 交代寄合旗本とは1万石以下であるが、領地に住んで参勤交代を行うが、強制ではなく、老中の支配を受けたので(江戸在府の旗本は若年寄の支配)大名と同等かそれに準ずる待遇を受けていた。ただし正式に交代寄合の用語が使用されたのは元禄16年(1703)が初見である。

 

 伊豆木陣屋とは無関係だが、父島・母島を中心に、今も拡大を続ける西之島や日本の最東端南鳥島、最南端の沖ノ鳥島を含む小笠原諸島がなぜそう名づけられたかが気になった。

 

 記録に残る小笠原諸島の発見は、天文12年(1543)スペイン人による母島が初見で、日本人としては寛文10年(1670)紀州の蜜柑船の長右衛門らが母島に漂着し、その後伊豆下田に生還して幕府に報告されたのが最初といわれている。

 

 延宝3年(1675)この報告をもとに幕府は調査船を派遣し、「此島大日本之内也」との碑を設置した。この当時はまだ無人島(ぶにんじま)と呼ばれていた。

 

 享保12年(1727)小笠原貞任という浪人が現れて町奉行大岡忠相に語るには、貞任の祖父小笠原貞頼が徳川家康の命で文禄2年(1593)に小笠原諸島を発見したので、その領有権と渡航調査を願い出るというものであった。

 

 忠相はそれを許して享保18年(1733)貞任の甥の長晁が大坂を出港したが、消息を絶ってしまった。貞任は再度の渡航を願い出るが、奉行所は貞任が証拠として提出した「巽無人島記」を偽書と断定し、さらに小倉藩主の小笠原宗家が貞任との親族関係を否定したことから、貞任は詐欺の罪に問われ、財産没収・重追放の刑に処せられた。

 

 しかし、小笠原島の名前はこの騒動によって定着する。父島には貞頼を祀る小笠原神社があるものの、その実在については否定的な意見が多いそうだが、当時豊臣秀吉は台湾に実際には実在しなかった「高山国」に朝貢を求めるなど大陸だけでなく未知の海洋進出も進めており、家康もダメもとで貞頼を派遣した可能性もない訳ではないような気がするのだが、どうだろうか。

 

 

以下、現地案内板より

 

重要文化財  旧 小笠原家書院  昭和27年3月29日指定

 

 この建築は伊豆木小笠原家の居館の一部です。
 伊豆木小笠原家は中世松尾に居城した松尾小笠原家の後裔です。慶長5年(1600)徳川家康より初代小笠原長巨が伊豆木において秣料千石を賜り、この地に居館を構え以後代々ここに居住しました。
 その居館は小型の城郭をなしていましたが、明治初年帰農の際に大半の建物がとりこわされ書院のみが残されました。現書院は元和3年(1617)の建立と伝えられていましたが、昭和45年の解体修理によって寛永初年(1624)頃初代長巨が建立したことが確かめられました。
 書院の玄関は唐破風造りで、中央蟇股に小笠原家の家紋の三階菱がついています。書院は平面田の字形の四室で三方に一間通りの入側をめぐらし、奥の火灯窓のある書院の間と次の間とは格天井で、その境に豪放な大菱欄間をつけ、次の間北側の三間の大床とともに豪華な桃山時代の建築を示しています。
 書院の南側床下の懸造りも珍しく、この建物全体が近世初期の地方豪族の邸宅を示す遺構として貴重なものです。

 

平成11年3月  飯田市教育委員会