大和 二上山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸(雄岳)

イメージ 2②葛城坐二上神社

イメージ 3③二ノ丸(大津皇子墓)

イメージ 4④雌岳から雄岳ヲ望む

イメージ 5⑤雌岳からの眺望

イメージ 6⑥麓の傘堂

 

訪問日:2010年10月

 

所在地:奈良県葛城市、大阪府南河内郡太子町

 

 赤沢氏は甲斐源氏小笠原氏の庶流で、伊豆国赤沢郷を発祥の地とし、後に信濃国に移った。赤沢朝経は、嫡子政経に家督を譲って上洛し、室町幕府管領の細川政元の縁故で8代将軍義政の弓道師範を務めた。

 

 延徳3年(1491)10代将軍義稙の六角征伐に従軍した朝経は、その鷹狩の腕を政元に気に入られて仕官し、戦功を挙げて山城上三郡の守護代に任じられるなど重用された。

 

 明応8年(1499)には義稙と対立した政元の命令で、義稙に呼応した比叡山延暦寺を波々伯部宗量とともに焼討して全山を焼失させた。信長による焼討の72年前の話である。

 

 同年、義稙方として挙兵した畠山尚順に与する筒井順賢・十市遠治らの大和国人衆に備えて山城南部に出陣、槙島城・御牧城・水主城を落とし、さらに大和に進出して二上山城を拠点に喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺などを焼討して大和北部を制圧した。

 

 文亀元年(1501)には大和守護職にある興福寺が神木を動座させ、朝廷を動かして撤退を要求させるが、朝経はこれを歯牙にもかけなかった。

 

 永正元年(1504)には主君・政元に反逆するが、薬師寺元一の取りなしにより赦免された。さらに同年、その元一が政元の廃立・その養子細川澄元擁立のクーデターを企てるとこれに結託し、元一の弟薬師寺長忠に捕えられた。

 

 しかし、政元はここに及んでも朝経を赦免し、翌年には山城上三郡守護代に復帰、その後は政元の命に従い、永正3年(1506)には再び大和に侵攻し、法華寺・正暦寺・多武峰などを焼き、大和の寺社勢力を平定する。

 

 永正4年(1507)政元が養子細川澄之を擁する薬師寺長忠や香西元長らに暗殺されると、丹後に一色義有を攻めていた朝経は、京都に撤退しようとするが、義有ら丹後国人に追撃され、自刃した。

 

 朝経の養子長経は逃れて細川澄元に仕え、同年中に澄元の京都奪回作戦の先陣を務め、澄之を討ち取った。そして大和に侵攻して筒井順賢・十市遠治ら大和国人を破り、大和を占拠した。

 

 しかし、翌永正5年(1508)には澄元がさらにもうひとりの政元の養子高国と対立し、高国派の大内義興に擁立された前将軍義稙が上洛し、11代将軍義澄や澄元を追放し、義稙は将軍に復帰し、高国は細川家の家督と管領職を手に入れた。

 

 そして長経は澄元や畠山義英らとともに河内で高国や尚順と戦うが、敗れて大和に逃れるも捕縛されて斬首となった。

 

 朝経の嫡男政経も当時信濃を出て河内高屋城を守備していたが、同年に落城して翌永正6年(1509)信濃に帰還して主家の小笠原氏に仕えた。

 

 政経の跡を継いだ経智(朝経の孫)は武田信玄の信濃侵攻により主家とともに越後に逃れ、さらに同族の三好長慶を頼って上洛した。

 

 経智の息子の長勝は永禄元年(1558)長慶と13代将軍足利義輝との北白川の戦いで討死、長勝の弟経直は後に徳川家康に仕え、小笠原に復姓(小笠原貞経)して、その子孫は小笠原流弓馬術礼法の宗家として現在に至っている。