伊勢 峯城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台

イメージ 2②本丸土塁

イメージ 3③本丸から二の丸

イメージ 4④三の丸切岸

イメージ 5⑤虎口

イメージ 6⑥遠景

 

訪問日:2015年5月

 

所在地:三重県亀山市

 

 鎌倉幕府が滅亡した元弘3年(1333)関盛政が関東から伊勢国鈴鹿郡関谷に移り住んだ。盛政には5人の子があり、長男盛澄は神戸城に、次男盛門を国府城に、3男盛繁は宗家を継いで亀山城に、4男盛宗は鹿伏兎城に、そして5男政実を峯城に配置して勢力を伸ばした。

 

 永禄11年(1568)信長の伊勢侵攻により、関一族は織田氏に服属、峯氏も信長の3男で神戸氏を継いだ信孝に従ったが、天正2年(1574)長島城の戦いで峯盛祐が討死すると、峯城には信孝の重臣岡本宗憲(良勝)が入った。

 

 天正10年(1582)本能寺の変で信長・信忠父子が斃れると政権の主導権を巡り、織田に復姓した信孝を推す柴田勝家と信忠の遺児三法師を推戴する羽柴秀吉や織田信雄らが対立し、秀吉は三法師を引き渡そうとしない信孝を同年12月20日岐阜城に攻めて降伏させる。三法師が引き渡された際、信孝の生母や側室・娘らとともに宗憲の母も人質に捕られた。

 

 翌天正11年(1583)正月、伊勢長島城の滝川一益が柴田勝家を支持して挙兵、亀山城・峯城・関城・国府城・鹿伏兎城を次々と調略していった。この時、宗憲は峯城を脱出して南伊勢に落ちたと思われるが、この時にはすでに信孝を見限って秀吉寄りの態度をとっていたのだろうか。

 

 一益は峯城に滝川益重を置くなど調略した諸城に一族を配置、秀吉を迎え撃つ。近江長浜城にあった秀吉は2月10日、伊勢に向けて出陣し、12日には峯城を包囲する。

 

 2月末、雪に閉ざされていた柴田勝家がついに挙兵して近江に進出、3月19日には木ノ本に布陣を終えた。秀吉は一部の兵を率いて3月27日、長浜城に帰還、そして勝家に呼応して4月16日、信孝が再挙兵して秀吉に近江・伊勢・美濃の3方面作戦を強いる。

 

 しかし、伊勢では3月3日に亀山城が落城、峯城の益重も4月17日まで持ちこたえたが、ついに降伏した。4月21日、賤ヶ岳の戦いで勝家は美濃から引き返した秀吉に敗れ、23日には北ノ庄城で自害、信孝も岐阜城を信雄に包囲されて進退窮まり4月25日降伏して、その後自害した。この時、人質となっていた信孝の家族とともに宗憲の母も処刑されている。

 

 峯城は織田信雄に引き渡され、家臣の尾張蟹江城主佐久間信栄が守った。天正12年(1584)3月14日、小牧・長久手の戦いを前に、蒲生賦秀(氏郷)の攻撃を受け、修復ができていなかった峯城兵は城を撃って出て敗れ、信栄は尾張に落ちて行った。

 

 宗憲は羽柴秀長に従軍して3月19日、降伏した松ヶ島城の守備についている。その後も豊臣氏に従い天正18年(1591)蒲生氏郷に従って陸奥白河城に移った関一政に替わり、亀山城に入り2万2千石を領した。しかし、関ヶ原で西軍に与して亀山城を兄に託して桑名城を守るが、西軍敗北後に開城して自刃した。
 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 峯城跡  昭和四四年三月二八日 三重県史跡指定

 

 峯城は、安楽川と八島川にはさまれた標高85㍍程度の丘陵上に位置する山城で、正平年間(1346~70)に関盛忠の五男峯政実が築城したと伝えられる。以後峯氏六代の居城であったが、天正二年(1574)、峯八郎四郎が伊勢長島で討死したため峯氏は滅亡した。その後は岡本宗憲が城主になったとされるが、天正十一年(1583)羽柴秀吉の北伊勢侵攻、翌十二年小牧長久手の戦いの前哨戦により二度の争奪戦が繰り広げられた。天正十八年(1590)岡本宗憲が亀山城に移されるにあたり廃城になったと伝えられる。
 中心部の北・西・東側には高い土塁が廻り、一段高い土壇は天守台と伝えられる。伝天守台は石積の痕跡が見られ周辺には瓦が散布していることから、石垣を持ち瓦葺きの建物が存在したものと考えられる。中心部の北にはいわゆる虎口も見られ、室町末期から安土桃山時代にかけての城郭の姿が良好に遺されており、中世城郭から近世城郭への過渡期の状況がうかがえる全国的にも希少な例である。

 

所在地 亀山市川崎町殿町四二九五番地 外十七筆

 

平成十二年三月  三重県教育委員会 亀山市教育委員会