①天守台と井戸
②展望台からの本丸
③本丸
④本丸土塁
⑤光勝寺畝堀
⑥城跡模型
訪問日:2015年5月
所在地:三重県津市
織田信包は信長の9歳年下の同母弟といわれており、信長の伊勢侵攻にともない、永禄11年(1568)北伊勢の長野氏15代藤定の娘を娶って養子となり、長野信良と名乗った。
藤定は永禄元年(1558)北畠具教に臣従する形で和睦して具教の次男具藤を養子としてすでに家督を譲っていたが、永禄12年(1569)10月、具教が信長と和睦して大河内城を退去すると、具藤も信良に家督を譲らざるを得なくなり、11月、信良は上野城5万石の城主となった。
天正元年(1573)浅井長政が滅亡するとその夫人で4歳年下の同母妹とされるお市の方と3人の娘を上野城に引き取っている。天正8年(1580)から築城を開始した安濃津城が完成して移るまでの期間をここで過ごしたといわれている。
織田一族の重鎮として、信長の嫡男信忠の補佐を務め、主筋にあたる元尾張守護の斯波義銀の娘を長男信重の正室に迎えている。織田家内では信忠・信雄に次ぐ地位にあり、信孝より高かった。
天正10年(1582)本能寺の変の後は15万石に加増され、侍従に叙任されて「津侍従」と呼ばれた。賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に与して、以来秀吉に従った。
しかし、天正18年(1590)小田原征伐において北条氏政・氏直父子の助命を嘆願して秀吉の怒りを買い、左遷されて近江国内に2万石を与えられて秀吉の御伽衆となり、慶長3年(1598)丹波柏原3万6千石を与えられた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、丹後田辺城攻めに加わったが、戦後所領は安堵された。その後、姪の子である豊臣秀頼の補佐役として大坂城に入ったが、大坂冬の陣直前に72歳で急死した。家督は3男の信則が継いだが、その子信勝に嗣子なく断絶している。
城跡は本丸の土塁がよく残っている。天守台上の展望台はいかがかと思ったが、2階の展示室は写真⑥の模型や資料が展示してあり、持ち帰ることのできるパンフレットもある。浅井3姉妹を取り上げた大河ドラマの頃は観光バスが乗りつけてきたこともあったそうだ。今は子供の遊び場に戻っている。
以下、現地案内板より
戦国の世を生き抜き、江戸幕府3代将軍の母となった「江」
ゆかりの地、上野城へようこそ!
上野城跡は、東西約250メートル、南北約550メートルの規模で、城の主郭の周囲には、かつて土塁や堀切りで区画された郭が取り巻き、主郭の東側には幅が約20メートル近い空堀があったといわれています。
主郭の広さは約30×45メートル、その四周には今もところどころに土塁が残ります。
上野城の築城時期は明らかではないですが、天文17(1548)年の記録に分部氏から三間氏にこの城が預けられたことが記されています。
氏の後、永禄11年(1568)年に織田信長軍による伊勢侵攻があり、信長の弟信包が一時この城に入り、分部氏は信包に仕えました。信包が天正8年(1580)安濃津城(津城の前身)に移ると、分部氏が入ったと考えられます。その信包が治めた頃、お市とその娘の三姉妹(茶々、初、江)がいたといわれています。
文禄3(1594)年に信包が近江に移った後は、分部氏は豊臣秀吉、徳川家康に仕えて加増を重ね大名となりましたが元和5(1619)年に近江国大溝(現在の滋賀県高島市)へ転封となり、それとともに廃城となりました。