山城 山崎宝寺城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台②天守台より

イメージ 2③本丸虎口

イメージ 3④本丸切岸

イメージ 4⑤井戸跡

⑥山崎古戦場を望む

 

訪問日:2008年12月

 

所在地:京都府乙訓郡大山崎町

 

 羽柴秀吉と明智光秀の決戦の地として有名な天王山だがその歴史は古く、南北朝の頃に北朝の摂津守護赤松範資が南朝に備えて鳥取尾城を林直弘に警固させたのが初見である。

 

 また、応仁・文明の乱においては文明2年(1470)西軍の大内政弘軍が摂津に進入した際、京都防衛のため山名是豊が入城した。また、文明14年(1482)には細川政元が入城したとの記録が残る。

 

 大永6年(1526)細川尹賢の讒訴により管領細川高国に自害させられた香西元盛のふたりの兄波多野稙通と柳本賢治がそれぞれの居城の丹波八上城・神尾山城で高国に反旗を翻した。

 

 高国は尹賢らを鎮圧軍として派遣したが敗れて退却、翌大永7年に逆襲に転じて2月3日山城野田城を攻略した稙通・賢治兄弟は5日には摂津守護代薬師寺国長が守る山崎城を攻略し、国長は摂津高槻城に逃亡した。

 

 そして細川晴元の出陣命令を受けた阿波の三好勝長・政長兄弟と2月11日山崎城で合流すると、2月13日桂河原の戦いで高国や12代将軍足利義晴を打ち破り、高国は将軍を奉じて坂本へ逃れて行った。

 

 晴元は義晴の弟義維(14代将軍義栄の父)を擁立して泉州堺を本拠に5年にわたって京都も実効支配したため、義維は正式には将軍にはならなかったが「堺公方」と呼ばれた。

 

 天正10年(1582)天王山の宝積寺に本陣を置いて明智光秀に勝利した羽柴秀吉は清洲会議で柴田勝家に譲った長浜城に代わる居城を天王山に築き、大坂城が完成する天正12年(1584)までここを本拠とした。

 

 幕末の元治元年(1864)の禁門の変で宝積寺に布陣し、敗れて自刃した尊王攘夷派の真木保臣ら十七烈士の墓が建てられている。

 

 

以下、現地案内板より

 

天王山・古城跡

 

天王山は標高270.4メートルの低い山ながら摂津国と山城国を分ける位置にあり古来より交通、軍事の上から重要視され、特に応仁・文明の乱の時には戦いがしばしばあり、山上に城も築城されました。さらに、天王山の名を世に知らしめたのは天正十年(1582)の羽柴軍と明智軍の合戦であります。この合戦によって勝利をおさめた秀吉は天王山に築城し大山崎を城下町としました。今も山中には門跡、空堀跡、土塁跡、井戸跡、石垣の跡等がいたる所に見られます。

 

 

十七烈士の墓(維新の史跡)

 

 幕末、王政復古の運動を推進した長州藩が、文久三年(1863)八月十八日の政変のため、三条実美以下七卿と共に京都を脱出し、しばらく本国に退いた。このとき筑後水天宮神官真木和泉守始め尊王攘夷の志士たちは、長州藩の京都回復運動に同調し、清側義軍を編成して元治元年(1864)夏、長州藩軍兵と共に上京し、ここ山崎に布陣した。その強硬な上京軍に対し、幕府側はついにこれを追討することを決したが、先に上京軍は伏見・天竜寺及び山崎の三方から遊撃を開始した。かくて御所の幕府軍との間に激しい戦いが展開されたが、上京軍蛤御門・堺町御門において敗れ、退却を余儀なくされた。この山崎に退いて長州藩主力兵の国元引き揚げを見送った真木以下烈士十七名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして天王山に登り、七月二十一日、場討附追討軍の来襲を前に、烈士そろってこの地で壮烈な自刃をとげた。
 その直後、敗兵掃討によって離宮八幡宮・神宮寺等の社寺や、民家二百余戸を焼失したが、やがて烈士たちの念願が成って明治維新を迎えるに至った。かくして、十七烈士は現位置に改葬され、永遠の眠りについたのである。今日、その志を忍ぶ人々の手によって毎年十月二十一日、墓前祭が挙行されている。

 

昭和五十九年十月二十一日  天王山十七烈士奉賛会