陸奥 金山城(金山要害) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸石垣

イメージ 2②本丸石垣

イメージ 3③本丸石垣

イメージ 4④案内板

 

 

訪問日:1997年頃

 

所在地:宮城県伊具郡丸森町

 

 伊達稙宗の死後、永禄9年(1566)に相馬盛胤がその遺領の伊具郡・宇多郡の一部を支配した後に相馬家臣の井戸川将監・藤橋紀伊が築城したといわれている。

 

 その後、相馬氏と伊達氏との間で争奪戦が繰り広げられ、天正12年(1584)になり、ついに伊達輝宗が攻略して戦功を挙げた中島宗求が2千石を与えられて城主となった。

 

 宗求は、その年の10月に家督を継いだ伊達政宗のもとで数々の戦功を挙げ、天正17年(1589)駒ケ嶺城攻略戦では、単身城に乗り込み開城交渉を成功させ、また、文禄4年(1595)豊臣秀次事件に政宗が関与したとして謹慎を命じられた際には、佐沼城主の湯目(津田)景康とともに伏見の秀吉に直訴して処分の解除に成功した。

 

 江戸時代となり、金山城は元和一国一城令により公式には「金山要害」と称したが、中島氏は明治維新まで金山にあった。下にあるように、14代信成は明治11年(1878)仙台藩士の氏家厚時、亘理隆胤らとともに東北地方最大で堅実経営で知られる七十七銀行の創設に携わり、取締役兼支配人に就任している。

 

 

以下、現地案内板より

 

町史跡 金山城(金山要害)

 

金山城は、標高117mの独立山地を利用して造られた山城である。この城は、永禄年間、相馬の家臣井戸川将監、藤橋紀伊が築城したとされているが、天正4年(1576)以降この城をめぐって、伊達と相馬の間で激しい攻防があり、天正12年(天正9年伊達政宗初陣)になってようやく伊達家に帰属することに決まった。伊達政宗は、この戦に最も手柄のあった中島宗求に、この城と金山本郷、大内、伊手の三村(二千石)を知行地として与えた。天正16年には、相馬に備えて本城や南の山居、黒森山の各所に新たに石塁、土塁、堀切などの防護施設を造り、一段と強固な構えに改築を行った。本丸には居館が建てられ、周辺の平場には、兵具庫、煙硝庫、馬屋を配し、これらを囲む土塀や埋門、陸橋などが設けられた。家中屋敷や町場は山麓に配置された。280年間続いた城は、明治維新後、取り壊された。

 

初代城主 中島宗求 金山城攻略、新地の戦、摺上原の戦、葛西大崎一揆の鎮圧、文禄の役に戦功
をたてる。秀次事件の際、政宗の潔白を豊臣秀吉に直訴し許される。
  二代   宗勝 大坂夏の陣に出陣する。
  五代   宗盈 仙台藩奉行職となる。
  七代   成康 同
 一三代   恒康 尊王護国を唱え、藩の佐幕派と論争して敗れ閉門の罰をうける。
 一四代   信成 戊辰の役に出陣、維新後七十七銀行を創設する。

 

平成元年九月  丸森町 金山保勝会