陸奥 丸森城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①遠景

イメージ 2②大手道

イメージ 3③金山城方向を望む

 

訪問日:1999年3月

 

所在地:宮城県伊具郡丸森町

 

 伊達稙宗(初名高宗)は永正11年(1514)27歳の時に父の死去に伴い伊達氏14代当主となり、その年に羽州探題・最上義定を破り、妹を義定の継室に送り込んで最上氏を実質支配下に置いた。

 

 永正17年(1520)義定が嗣子を残さずに亡くなると稙宗は傀儡(恐らく実子)を立てようとするが最上家臣団が反発、稙宗は上山城や山形城などを攻略し、最上郡や村山郡南部を得たが、後継については妥協して義定の弟の孫で2歳の長松丸(義守・義光の父)の相続を認めた。

 

 大永2年(1522)室町幕府史上初の陸奥守護に就任、天文5年(1533)には171条にも及ぶ分国法『塵芥集』を制定した。そしてその頃、次男小僧丸(大崎義宣)を奥州探題・大崎義直の養嗣子に送り込んだ。しかし、これには嫡男の晴宗が不服だったようだ。

 

 さらに、稙宗の母積翠院が越後守護・上杉定実の実姉であることから(異説あり)、定実の家臣・中条藤資の妹である側室が産んだ3男時宗丸(伊達実元)を定実の養嗣子にしようとすると、晴宗や家臣団の反対に遭い、ついに天文11年(1542)南東北を二分する天文の乱が勃発する。

 

 6年に及ぶ内乱の末、天文17年(1548)将軍足利義輝の仲裁により和睦、稙宗は降伏して晴宗に家督を譲り、隠居領として伊具郡・宇多郡の一部を与えられて丸森城に入り、永禄8年(1565)78歳で亡くなった。

 

 天文の乱の結果、伊達氏の勢力は衰退した。稙宗の隠居生活を支えた外孫の相馬盛胤は稙宗の隠居領の領有権を主張して伊具郡・宇多郡に侵攻して丸森城を接収し、元亀元年(1570)家臣門馬氏を置いた。伊達氏が丸森城を奪還したのは天正11年(1583)輝宗の時代のことであった。

 

 また、稙宗の次男大崎義宣は天文19年(1550)晴宗方についた義父の義直の追討を受け、葛西晴胤(実の兄弟とも)を頼って逃亡中に殺害された(25歳)。

 

 上杉氏との養子縁組が頓挫した実元は兄・晴宗に降伏して許され、兄の次女・鏡清院を妻として、永禄11年(1568)伊達成実が生まれている。上杉定実は後継を残せずに天文19年(1550)病没して越後守護家は断絶し、守護代・長尾景虎(上杉謙信)が将軍義輝により、越後国主となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

丸山城の由来

 

丸山城は、天文17年(1548)天文の乱(伊達稙宗、晴宗父子の争い)に敗れた稙宗が隠居したことで有名になった。
稙宗は永禄8年(1565)この城で没するまで17年間、隠居生活を送ったことになる。
稙宗の没後は、この丸山城をはじめ、隠居料としてもらっていた丸森ほか五か村は、稙宗の世話をした長女の嫁ぎ先、相馬氏がそのまま所領とした。(このことがそれから後、伊達氏と相馬氏との争いの大きな原因となった。)
菩提寺は稙宗が伊達郡におった折に菩提寺としていた松音寺が菩提寺となった。(この松音寺は政宗の代に仙台に移した。)

 

元亀元年(1570)相馬氏は、藩士門間大和を丸山城主とした。
天正4年8月、伊達晴宗、輝宗父子は小斎矢の目に陣を敷き相馬氏を攻撃。
天正12年まで8年もの間、丸森、金山、小斎の各地で激しい戦いが交えられたのである。
その間に晴宗は没し、輝宗の子政宗もこの戦いに出陣している。
戦いは終わって伊具郡は元通り伊達氏のものとなり、丸山城は黒木宗元が城主となる。
その後家老高野壱岐親兼が城主となり、さらに慶長6年(1601)大条薩摩守実頼が会津から移封されて城主となる。
その年(一説には3年後)大条薩摩守は鳥屋館に移り、ここで丸山城は明城となる

 

今は本丸跡に愛宕神社が祀られ、境内に伊達稙宗の墓碑が建っている。

 

丸森町商工会 丸森町観光協会