播磨 才構居 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①随応寺

イメージ 2②泣き坂峠

 

訪問日:2005年2月

 

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 城主は、英賀の家臣権野四郎左衛門、あるいは赤松晴政の子で義祐の兄の才村伊三郎則直と伝えられている。則直城との関連も考えられる。

 

 構居の裏山を登ると泣き坂峠に至る。写真②によると秀吉に敗れた英賀城の城兵や女子供がこの峠を越えて北へ落ちて行ったとあり、一旦才構居に立寄って逃れて行ったと思われる。

 

 一方、龍野城主や但馬竹田城主を務めた赤松広秀は父政秀が毒殺された後、一時才村(または佐江村)に避難していたことに因み斎村政広と改名したといわれており、ここのことかとも考えた。しかし、英賀城主の三木通秋は政秀の敵である赤松義祐に与しており、可能性は低い。揖西郡佐江村が龍野に近く、こちらの方が自然か。

 

 現在、構居跡は臨済宗妙心寺派の随応寺となっている。