播磨 細川城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①惺窩像(右)

イメージ 2②惺窩誕生地碑

イメージ 3③郭跡

イメージ 4④郭跡

イメージ 5⑤碑

イメージ 6⑥細川橋


訪問日:2012年11月

所在地:兵庫県三木市

 播磨国細川庄を領していた下冷泉家の 当主冷泉為純は、従三位参議まで昇進した公家の人物だが、戦国の世の混乱から所領の年貢を確保するため京都を離れて細川庄に下向して領主となっていた。

 天正6年(1578)三木城主の別所長治と織田の武将羽柴秀吉が決裂した後、東播磨の諸将が別所氏に追随していったが、為純は織田方につき長治の攻撃を受ける。

 為純は抵抗したが、秀吉の援軍が得られずに細川城で自害、嫡男為勝は脱出したものの嬉野で別所軍に追い詰められこれも自害した。この時為勝とともに行動していたのが家老の依藤太郎左衛門である。

 当時18歳であった為純の次男は龍野の景雲寺にあり難を逃れたが、後に日本朱子学派の開祖として名を馳せた。藤原惺窩である。

 惺窩は弟為将を下冷泉家の新たな当主に擁立し再興させた。その後は惺窩の息子為景が相続し、以後その子孫が相伝して現在に至っている。


以下、現地案内板より

藤原惺窩先生ゆかりの冷泉家

 関白 藤原道長の第六子長家を祖としている。
 当初は御子左家と称した歌道の名門である。平安時代の末頃、俊成は千載集を著わした。その功により歌所の所領として細川の庄(細川町)を朝廷より賜り子孫に伝えた。
 その子、定家も新古今集を著わすなど我国随一の歌人と仰がれた高名な人であった。
 為家の死後、長男為氏は二条家を次男為教は京極家を、異母弟為相は冷泉家を興した。この時為氏と為相とに細川の庄をめぐって相続争いが起こった。為相の母、阿仏尼は鎌倉幕府に訴えるため、関東に下った。有名な十六夜日記は、この時の紀行文である。訴訟の結果、細川の庄は冷泉家の領有となった。
 室町時代の中頃、冷泉家は故あって二つに分かれた。此の頃の家系は二条家と絡み合って複雑ではあるが、水上にあった方を上冷泉、水下にあった方を下冷泉と区別して呼ぶようになった。そして細川の庄は、下冷泉家に引き継がれた。
 やがて、応仁の乱により、京都が焼け野原となったため、政為の頃から領国である此の地に住まわれ、時折、御所に伺候された。惺窩はこの下冷泉家に輩出した。天正六年別所長治の不意打ちを受け為純長子為勝は討ち死にして、下冷泉家は廃絶したが、惺窩の子、為景は後光明天皇より四も冷泉家の再興を許され公卿として代々朝廷に仕えた。

下冷泉家系図   (省略)

三木市 藤原惺窩先生奉賛会


藤原惺窩先生の生い立ち

 近世儒学(朱子学)の開祖と仰がれた藤原惺窩は永禄四年(1561年)冷泉参議藤原為純卿の第三子として此の地に生れた。
 七、八才の頃より、竜野の景雲寺において禅僧として修行中、父為純は別所長治の急襲を受けて討死した。凶報に接した惺窩は、母や弟妹を伴い京都にのがれ相国寺に入った。彼が十八才の時である。
 以来、学ぶところ幅広く、深く研鑽を積み、ついに儒者となり、書において通ぜざるなしと天下に認められるに至った。
 その後、朝鮮出兵の捕虜として抑留された儒学者姜沆との出会いで感化を受け、徳川家康には知遇を得て江戸にも招かれ治国の道を説き、度々儒学を伝授している。
 また、家康には二千石の高禄を以って招かれたが、学問の自由を守って仕官を好まず、自らは清貧に甘んじ、洛北市原に山荘をかまえ悠々自適、学研に励んだ。
 元和五年(1619年)九月十二日、五十九才の生涯を終った。門弟、林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵はその四天王といわれ多士済々である。
 忠、孝、義を基本として礼節を尊び、大義名分を大切にした惺窩の学説(朱子)は、形式面においては、羅山により徳川幕府の官学として継承された。内容面は京都における尺五らに伝えられ、京学派として豊かな高い人間性を推進する本格的な学問として我が国の道徳、思想形成の上に大きく貢献した。
 心学五倫書、仮名性理竹馬抄、惺窩文集は数多い著書の代表作と言われている。墓は京都相国寺にある・

三木市  藤原惺窩先生奉賛会