播磨 豊地城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①観音堂と堀

イメージ 2②観音堂

イメージ 3③西郭南側より

イメージ 4④屋口城を望む

イメージ 5⑤城址碑


訪問日:2009年3月

所在地:兵庫県小野市

 依藤則忠は嘉吉の乱で滅亡した赤松氏を再興させる赤松政則の武将のひとりで、長禄元年(1457)から翌年にかけ、2度にわたり奥吉野の後南朝に攻め入り、三種の神器のひとつ御璽を奪還した長禄の変にも従軍し、再興に貢献した。

 応仁元年(1467)からの応仁の乱で政則は細川勝元の東軍につき、山名宗全に奪われた旧領の播磨や備前・美作へ侵攻し、翌年までに奪還した。則忠は功績により東条谷を与えられ豊地城主となった。

 しかし、政則の赤松家当主の地位は常に不安定で、特に文明16年(1484)には守護代の浦上則宗が豊地城に招集した他の有力武将である明石氏・中村氏・小寺氏などと語らい、政則を追放してしまう。

 

 この時の依藤氏当主秀忠もこの追放劇に加わったらしいが、一方で豊地城を放棄して政則に従い摂津神呪寺に逃れ、後に豊地城を回復したという記録もある。


以下、現地城跡碑より

史跡 豊地城跡

 字城土居を中心として東西約400メートル、南北約200mの城域をもつ中世の平城で、東西北の三方に川がある要害の地に城を構え、周囲には堀と土塁を築いて防備を固めていた。
 城主は、南北朝時代は金谷経氏、応仁年間以降は依藤氏(赤松氏の家臣)、三木の別所重棟、栗山氏(初代赤松氏の実兄景盛の子孫で依藤氏時代からの執権)と変わる。東條谷を領して室町戦国時代の出来事に深く関わり、三木合戦後(天正8年頃)秀吉の命により取り壊されたが、城跡は栗山氏が引き継いで、以後、畿内、九州平定、朝鮮出兵など秀吉の働きに広く協力した。