播磨 枝吉城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸城跡碑

イメージ 2②本丸切岸

イメージ 3③本丸

イメージ 4④吉田遺跡碑

イメージ 5⑤神本神社

イメージ 6⑥城郭配置図


訪問日:2001年8月(①②) 2012年6月(③~⑥)

所在地:神戸市西区

 現在の行政区分では神戸市西区だが、かつてはこの城も「明石城」と呼ばれ、明石氏の居城であった。天文8年(1539)には尼子晴久により置塩城を追われていた赤松晴政の、天文23年(1554)から翌年にかけては三好長慶の攻撃を受け、いずれも降伏しているが、そのまま城主であり続けた。

 最後の城主明石則実は祖父が正風(長行か)という説が正しければ、黒田官兵衛の母いわ(小寺政職の養女)の甥で、官兵衛とは従兄弟ということになる。

 

 官兵衛とともに秀吉に仕え四国征伐に戦功を挙げ、天正13年(1585)但馬豊岡2万2千石に転封となった。しかし、文禄の役から帰国後の文禄4年(1595)、豊臣秀次の事件に連座して切腹を命じられた。

写真⑥の通り破線より上の本丸のおよそ4分の3が宅地造成のため削り取られているので、往時はかなり大きな城だったといえよう。


以下、現地案内板より
 
枝吉城址について

 枝吉城は、戦国争乱の時代が幕をあける15世紀中ごろ、明石氏によって築城された。明石氏は、古代明石郡の大領を先祖とするという言いつたえがある。
 城を台地上にかまえ、その東縁には城主の居館を中心に城下町が形成され、一時は地域の中心として賑わった。その後、枝吉城は二度の合戦を経て、城下町もそのたびに戦火にあったが、16世紀末にはキリシタン大名の高山右近重友が最後の城主となり、1世紀半にわたる枝吉城の歴史は終った。
 枝吉城が築かれていた台地は城山とよばれ、6万3千余平方メートルの範囲には田畑や雑木林、溜池があった。この台地上には、稲作開始期にあたる弥生前期の村落跡もあったが、枝吉城築城の際に壊されてしまった。弥生前期の村落跡「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑が城山台地上に建立され、この地の歴史の1ページを記念している。

枝吉城主系譜   尚行-祐実-則行-長行-祐行-則実-高山右近重友