伊予 西条城(西条陣屋) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大手門

イメージ 2②大手門

イメージ 3③大手門

イメージ 4④水濠

イメージ 5⑤水濠

イメージ 6⑥水濠


訪問日:2010年8月

所在地:愛媛県西条市

 直末の討死により家督を継いだ18歳年下の弟・一柳直盛は秀吉から尾張黒田城(現・一宮市)に3万石を与えられ、天正19年(1591)従五位下監物に叙任、翌年には5千石を加増される。

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦で東軍について戦功を挙げ、伊勢神戸城に5万石を与えられる。大坂の陣でも戦功を挙げた。

 寛永13年(1636)に家光の命により伊予西条に転封、6万3千石に加増されるとともに次男の直家にも播磨加東郡に5千石を分与された。しかし、伊予に赴く途上に発病して大坂で亡くなった。享年73.

 遺領は分割されて嫡男直重が西条藩3万石、次男直家は播磨加東郡に加えて伊予川之江に合わせて2万8千石余を与えられ川之江藩を立藩、3男直頼は伊予小松に1万石を与えられた。

 西条藩は直重の子・直興が幕府より職務怠慢・失政を理由に改易され、加賀前田藩預かりとなり、元禄15年(1702)金沢で79歳で亡くなった。

 西条藩は紀州徳川家の祖徳川頼宣の3男松平頼純が3万石で入り、紀州藩の支藩として明治維新を迎えた。


以下、現地案内板より

市指定史跡  西条藩陣屋跡

 寛永十三年伊勢神戸城主一柳直盛は、郷国西条へ転封になったが、赴任の途次大阪で病没したため、長男直重が後を継ぎ西条に赴任し、西条陣屋を築造し城下町を開いた。直重の後を継いだ直興は、寛文五年改易となり一柳氏の治政は、三十年間で終わった。
 そのあと、寛文十年紀州から徳川頼宣の次男松平頼純が就封され、その後十代二百年間松平頼英が明治二年版籍を奉還するまで、西条は城下町として繁栄した。
 現在陣屋跡は、西条高等学校となっているが、校門となっている大手門、門脇の堤、前濠の石崖、お矢来、濠等に昔の面影が偲ばれる。

昭和三十九年八月十一日 市指定