摂津 新田城(多田城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①新田城主郭推定地

イメージ 2②新田城主郭推定地

イメージ 3③新田城主郭推定地


訪問日:2010年5月

所在地:兵庫県川西市

 「多田城」ともいい、源満仲が築城したが、現在は住宅地となっている。満仲はこの地に入部して所領を開拓し、多くの郎党を養い武士団を形成した。

 満仲は多くの息子に恵まれ、長子頼光は金太郎の坂田公時や渡辺綱ら四天王の主君であり、摂津源氏の多田氏や能勢氏、太田道灌を輩出した太田氏や土岐氏とその支流の明智氏・浅野氏らの祖である。

 次男頼親は大和源氏の祖で、陸奥石川氏や肥後隈部氏らがその後裔を称している。

 3男は頼信で、河内源氏の祖であり、ここが後に源氏嫡流となり、義家、為朝や頼朝、義経らを輩出し、足利氏とその支流の細川氏・畠山氏・今川氏・吉良氏・一色氏など、また、新田氏とその支流の山名氏・里見氏などもここから出ている。他にも頼平、頼範、頼明、頼貞、頼尋、源賢といった名前が伝わっている。

 頼光以来の多田源氏の嫡流は頼盛が保元の乱に後白河天皇につき、その嫡子行綱は木曽義仲に呼応して摂津・河内で挙兵、義仲没落後は義経とともに一の谷の戦いなどで活躍したが、平家滅亡後頼朝により多田から追放され、都落ちする義経を迎え撃って、所領回復を目指したが叶わず没落した。清和源氏嫡流の地位を巡る頼朝との暗闘に敗北したということであろう。

 行綱の4男基綱は、承久の乱に後鳥羽上皇方についたが敗れて討死している。多田への復帰を目指したものと思われるが、叶わなかった。多田源氏の支流は南北朝時代に南朝方として活躍していたり、甲斐多田氏の一族は江戸時代に旗本として存続したようだ。