近江 大溝城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台

イメージ 2②天守台

イメージ 3③天守台

イメージ 4④本丸

訪問日:2006年8月

所在地:滋賀県高島市

 津田(織田)信澄は織田信長の弟信行(信勝)の嫡男として弘治元年(1555)生まれたが、3歳のときに父が信長に謀反を企てたとして暗殺され、祖母の助命嘆願により、柴田勝家に養育された。(年代には異説あり)

 信長は成人した信澄を取り立てて、天正2年(1574)には20歳の時に東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る奉行を務め、翌年の越前一向一揆征伐で初陣を果たし、この頃に近江国内に所領を与えられている。また、天正4年(1576)からの安土城築城では普請奉行として工事に携わった。

 天正6年(1578)には高島郡を与えられていた磯野員昌が出奔したため、その養子として高島郡を加増される。同時期に明智光秀の娘を娶っている。

 石山本願寺との戦いや荒木村重の討伐にも織田信忠に従軍して摂津平定に戦功を挙げた。

 天正10年(1582)信長が土佐長宗我部氏征伐を決意し、織田信孝の丹羽長秀らとともに副将のひとりとして大坂城に駐留していたが、6月2日舅の光秀が本能寺の信長を暗殺、3日後に信孝と長秀により襲撃され、殺害された。享年28歳。

 多聞院日記を著した興福寺の多聞院英俊は「一段の逸物也」と信澄を高く評価して、その死を惜しんでいる。嫡子昌澄は旗本として子孫は幕末まで続いている。

 
以下、現地案内板より

史跡 大溝城本丸跡

 織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に大溝城が築かれた。この城は、びわ湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。
 そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正6年(1578)2月3日その跡地を甥(弟信行の長男)織田信澄に宛行い大溝城主とした。
 城主に入った信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
 ところが、天正10年6月2日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、6月5日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。
 大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和5年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た。

 この大溝城本丸跡は、平成8年3月高島町指定文化財となった。

平成8年3月  高島町教育委員会