山城 山科本願寺城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①土塁

イメージ 2②城跡碑

イメージ 3③現在の山科別院


訪問日:2012年11月

所在地:京都市山科区

 現在、東西合わせて2万近くの所属寺院、信徒を擁する本願寺は8世蓮如の登場までは天台宗の末寺に過ぎず、浄土真宗の中では佛光寺や専修寺のほうが多くの信者を獲得していた。

 蓮如は講という民衆の組織をつくり、親鸞の教えを平易な言葉で平等に聞くことができる場所を提供し、急速に発展させていった。一向宗と呼ばれた講の信者たちはやがて団結して為政者たちに立ち向かうようになる。

 蓮如は明応8年(1499)示寂、9世実如は永正3年(1506)細川政元の要請を受け、畠山義就の孫義英討伐に協力すると摂津・河内の門徒が反発し、実如の弟実賢を擁立するが、実如はこれを実力で抑え込む。(河内国錯乱)

 永正4年(1507)政元が暗殺されると実如は近江へ亡命、2年後に山科本願寺へ復帰するが大永5年(1525)示寂すると孫の証如が10歳で継承する。

 証如を後見した実如の弟で、証如の外祖父でもある蓮淳は本願寺の権力を高めるため、かつての実如の亡命先で、信徒も多い近江堅田本福寺を破門して徹底的に弾圧、本福寺明宗を餓死に追い込んだ。加賀では証如の命令を奉じた超勝寺・本覚寺(大一揆)が実如の弟や甥の賀州3カ寺(小一揆)を粛清した。

 中央では反本願寺の細川高国に対し、三好元長が擁立する細川晴元が挙兵するとこれを支援し、享禄4年(1531)大物崩れで高国が亡ぶと、今度は盟友であった晴元と畠山義堯が対立、晴元に内応した木沢長政討伐に挙兵した義堯に元長も加担した。

 一旦は両軍撤兵したが翌年(1532)畠山・三好は長政を再攻する。晴元は蓮淳に畠山・三好討伐への協力を要請、熱心な法華宗徒である元長に恨みを抱いていた蓮淳はこれを了承して17歳の証如にも出陣させ、畿内の門徒を結集させると形勢は逆転、義尭・元長を自害に追い込んだ。

 さらに信徒たちは証如や蓮淳の制止命令を無視して奈良に突入、興福寺を焼き払い、猿沢池の鯉や春日大社の鹿を食い尽くしたと言われている。筒井・越智氏や十市遠治の援軍により撤退したが、本願寺は奈良において永代禁制とされ、面目を失った。

 細川晴元は本願寺との決別と鎮圧を決意。一方蓮淳は信徒の行動を追認して晴元攻撃を命じる。しかし、木沢長政や近江守護六角定頼、そして山城の法華宗徒が晴元に呼応し、3万兵で山科本願寺を包囲した。本願寺は炎上して証如は石山へ逃亡、大津顕証寺にいた蓮淳は証如の安否も確認せねまま伊勢長島願証寺に逃れた。