播磨 網干陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①陣屋門

訪問日:1999年11月

所在地:兵庫県姫路市

 京極高和は、松江26万石藩主で伯父の忠高が寛永14年(1637)に嫡子を残さず亡くなったので、その末期養子となり、播磨龍野6万石に減封され、相続した。

 忠高の妻は将軍秀忠と江の4女初姫、江の妹で忠高の義母常高院(浅井長政の3女)と同名だが、夫婦仲は悪かったのか、初が29歳で亡くなった時、忠高は相撲見物に興じており、秀忠や家光は京極家に葬儀への参列を許さなかった。

 忠高が寛永14年に亡くなった時には常高院も亡くなっており、京極家の存続は危ぶまれたが、過去の功績を評価されて、冒頭の通り、高和が相続した。なお、高和が忠高の実子で、初や徳川家に憚って甥としていたとの説もある。

 その後、丸亀城に移った高和は、現在も残る天守を完成させている。


以下、現地案内板より

網干陣屋跡(所在地 姫路市網干区興浜)

 この地は、かつて羽柴秀吉が別邸(鶴松亭)を建てたところで、江戸時代初頭は姫路藩領であったが、曲折の後、寛永14年(1637)に龍野藩領となった。万治元年(1658)、当時の龍野藩主京極高和は四国の丸亀へ移封されたが、網干地区28ヵ村だけは引き続いて京極家領となり、以来明治まで丸亀藩の飛地であった。
 丸亀藩は、この地に網干陣屋を設け、代官・奉行などを配置していた。明治維新で建物はほとんど取り払われたが、門だけが残された。かつて揖保川の近くに西面して建っていた陣屋門は、明治3年(1870)この地に移築され、永らく興浜の檀尻庫として利用されていた。
 現在の建物は、老朽化した旧陣屋門を参考にして、昭和62年度に改築されたもので旧にならって軒丸瓦には京極家の家紋が用いられている。
          
平成6年11月   姫路市教育委員会