播磨 龍野城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①埋門内側

イメージ 2②聚遠亭

イメージ 3③模擬櫓と鶏籠山

イメージ 4④本丸御殿

イメージ 5⑤埋門外側

イメージ 6⑥埋門外側


訪問日:1990年3月(①②) 1999年10月(③) 2010年12月(④⑤⑥)

所在地:兵庫県たつの市(旧龍野市)

 鶏籠山の龍野古城は万治元年(1658)に城主京極高和の讃岐丸亀移転により幕府領となり、破却され放置されていたが、寛文12年(1672)に信濃飯田から脇坂安政が転封され、城を再建したが、鶏籠山上の郭は放棄され、麓の居館だけを整備し、陣屋のような構造とした。

 安政は、譜代大名で将軍家光に殉死した堀田正盛の次男で、母は大老となった酒井忠勝の娘あぐり。養父は外様大名の脇坂安元。

 安元は当初弟の安経を養嗣子としていたが、姻戚関係にある備中松山藩主池田長幸の遺領をめぐる会議の席で池田長頼に殺害されると、次に安元は幕府との関係を意識してか堀田正盛の弟安利を養嗣子とする。しかし、安利も相続することなく19歳で亡くなると、その甥にあたる安政が養嗣子となった。

 安政は寛文6年に円尾屋円尾孫右衛門が創案した淡口醤油の生産を奨励するなど龍野城下町の整備・発展に貢献する。

 

 一方で嫡男安村を病弱を理由に廃嫡し、5男安照を嫡子とすると、反発した安村が彦根藩主井伊直興や寛永寺の天真法親王に直訴するなどの行為に出て幕府を怒らせ、安村は若狭小浜藩預かりとなり、19年間幽閉されている。

 安政は実家が堀田氏であることから脇坂家を外様から譜代に扱いを変えるよう天和3年(1683)幕府に願い出て許され、譜代の江戸城帝鑑間詰となり「願譜代」となった。

 ちなみに、安政の弟勝直は陸奥盛岡藩2代藩主南部重直の養子となったが、その直後1月もたたぬ間に疱瘡で陸奥に赴くことなく亡くなっている。反対派の毒殺というのは考え過ぎだろうか。

 

 盛岡藩は重直の弟の七戸重信が相続する。加藤忠広が改易されたのが寛永9年(1632)、外様大名は存続のためなにふり構わずだったのだろうか。


以下、現地案内板より

龍野城

 龍野城は今から480年ほど前(室町時代明応の末期)鶏籠山山頂に築かれたもので、初代城主は赤松村秀でありました。以後赤松時代は4代続きましたが、天正5年(1577)に信長の命による秀吉の播州征伐の軍門に降り開城しました。その後慶長初年に山頂にあった天守が破却されたという言い伝えがあります。江戸時代に入ると龍野城は現在地に平山城として築かれましたが、万治元年京極高和の丸亀移転に際して破却され、その後14年間は天領となっていました。寛文12年(1672)幕命によって信州飯田から脇坂安政が5万3千石で入部し龍野城を再建しましたが、時代は既に太平の世でもあり、また外様大名でもあったので幕府の嫌忌に触れることを怖れ御殿式の築城に決したといわれ、そのため城郭というより武装化した邸宅と考えていただければよいと思います。
 現在の本丸御殿は、昭和54年に再建したものですが、再建にあたっては当時を偲ぶ貴重な資料や現在残る数点の古図に基づき重建したものです。

龍野市