和泉 岸和田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②本丸

イメージ 3③本丸

イメージ 4④本丸

イメージ 5⑤本丸

イメージ 6⑥絵図

訪問日:2007年1月

所在地:大阪府岸和田市

 

秀吉の紀州征伐①

 戦国時代の紀伊は高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆、熊野三山といった宗教勢力は独立国のような自治権を確保していた。中央集権を目指す織田信長は天正5年(1577)から雑賀攻め、天正9年から高野攻めを敢行するが、本能寺の変により紀州制覇は叶わなかった。

 特に根来寺は紀伊・和泉に8か所の荘園を有し、根来衆と呼ばれる僧兵を擁し、大量の鉄砲を所有していたが、信長に対しては終始友好的だった。

 しかし、秀吉の時代になると雑賀・粉河寺宗徒らとともに天正12年(1584)元旦早々に岸和田城を襲撃、さらに3月には淡路島の菅達長(かんみちなが)率いる水軍も加わり岸和田城や大津を襲撃したがいずれも撃退された。

 さらに同月21日、秀吉が小牧・長久手の戦いのために尾張へ向けて出陣すると、翌日には二手に分かれて再び岸和田城と堺を襲撃、さらに26日には住吉・天王寺まで進出した。しかし、大坂城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・黒田長政らにより撃退され、紀州勢は撤退した。

 翌天正13年2月、徳川家康・織田信雄との和睦を果たした秀吉は紀州征伐を決意、安芸の小早川隆景の水軍にも出陣を命じた上で、自身も3月21日大坂を出陣し、岸和田城に入る。