大和 郡山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台

イメージ 2②転用旧羅生門礎石

イメージ 3③転用石

イメージ 4④天守台から追手方向

イメージ 5⑤追手門

イメージ 6⑥追手門向櫓


訪問日:2009年5月

所在地:奈良県大和郡山市

 9月12日付の日経新聞などに、大和郡山城の天守台の発掘調査により礎石の存在や金箔瓦の発見により、五層クラスの豪華な天守があったことが確認されたとの記事が出ていました。

 豊臣秀吉の弟にして政権の重鎮である秀長の城に豪華な天守があったことは特に不思議でもなんでもありませんが、今まで何の手がかりもなかったことのほうが不思議に思う。

 

 ただ、郡山城の天守は伏見城かどこかに移築されたという資料があると昔どこかで読んだ気がするが、この天守のことなのだろうか。

 秀長は天文9年(1540)生まれで秀吉より3歳年下の異父弟(最近は同父説も有力)といわれ、秀吉の出世に多大な貢献を果たしたのはよく知られている。

 天正13年(1585)、46歳の秀長が100万石の郡山城主になった頃、奈良法華寺の尼、興俊尼を懐妊させて女児が生まれている。独身だった秀長は彼女を還俗させてお藤と名乗らせて正室に迎えている。いわゆるできちゃった結婚か。

 お藤は秀長との間に1男2女を儲ける。長男小一郎は歌舞伎の祖名古屋山三郎の妹の岩を娶るが早世し、2人の娘はそれぞれ毛利秀元、豊臣秀保(秀次弟で秀長から見ると甥で秀長の養子となる)に嫁いでいる。

 秀長没後、お藤は再び尼となり、智雲院として奈良興福院第二世の尼を務め、豊臣家滅亡後の元和8年(1622)に亡くなっている。

 秀長ゆかりの女性としては、他に京都大徳寺の秀長墓の隣に葬られている女性がいる。元信長の側室で、その後秀長の側室になったといわれているが、養春院古仙慶寿大姉という戒名しかわからない。