安芸 吉田郡山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②本丸カラ見た二の丸

イメージ 3③三の丸石垣

イメージ 4④尾崎丸堀切

イメージ 5⑤酉谷の石垣

イメージ 6⑥大通院谷の薬研堀

訪問日:2013年3月

所在地:広島県安芸高田市

 毛利時親は鎌倉幕府の六波羅評定衆で越後、安芸、河内に領地をもっていた。幕府の滅亡後に隠居するが、嫡子の貞親と孫の親衡は越後を拠点に南朝につき、足利氏により安芸の地頭職を取り上げられる。時親は曾孫元春を北朝につかせた上で、建武3年安芸吉田荘に下向し、子、孫の北朝方への帰順を取り成す。

 しかし、観応の擾乱の際には親衡は反幕府につき、息子元春が九州へ出陣した留守を突き攻撃するという後の元就の時代には考えられない一族相争う姿を晒している。


以下、現地案内板より

郡山城(酉谷地点)石垣  平成20年(2008)年調査 検出した規模 長さ約7.0m 最大の高さ約1.2m

この石垣は平成十八年九月の豪雨災害により崩落した山斜面の保安林の治山事業(林地荒廃防止事業)に伴う発掘調査で検出された。
 石垣上の平地が郡山城の郭跡で、この郭の斜面に築かれたものである。石垣の南側は地山の岩盤を削り造成した面(切岸)で、石垣はこの面に続く斜面に築かれている。最大で五段の石積みがみられ、南端で0.8mの幅で屈曲した部分がある。築かれた時期は、石材の積み方や周辺の出土遺物などから概ね十六世紀後半以降と推定される。また石垣の前面は犬走り状の平坦面となっており、通路の可能性もある。郡山城は十六世紀中頃に郡山全山に拡大されたとみられており、この石垣は、その整備が山裾めで及んでいたことを示している。なお石垣のある郭のさらに上方にも郭があり、調査で鍛冶炉跡や版築工法を示す郭の土層断面が検出された。