美作 勝山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①全景

イメージ 2②全景

イメージ 3③旧藩主三浦邸

イメージ 4④武家屋敷渡辺邸

イメージ 5⑤城下町

訪問日:2002年3月

所在地:岡山県真庭市(旧真庭郡勝山町)

 ニホンザルが戯れる神庭の滝や野趣あふれる砂湯で有名な湯原温泉、そして勝山城下町と家族旅行やドライブデートにおすすめだが、12年前は城には登らなかったのでまた訪れようと思っている。

 その前身は高田城といい関東の名族三浦高継が足利尊氏の時代に築城、室町時代に貞宗が地頭に任ぜられさらに城を整備した。

 

 戦国時代になり尼子晴久が台頭してくるとたびたび侵攻を受け、当主貞久がそれを撃退していたが、天文17年(1548)貞久の死後尼子氏に乗っ取られて嫡子貞広は家督を相続するものの高田城には居られず、尼子氏のもとで育った。


 しかし、高田城では永禄2年(1559)旧臣たちが弟貞勝を擁して高田城を奪還し、所領を回復した。だが、その貞勝は永禄7年三村家親により自害に追い込まれる。

 

 ちなみにこの時難を逃れた貞勝の妻は後に宇喜多直家に再嫁し、秀家を産んでいる。永禄9年に三村家親も直家により暗殺されると貞広が復活し、再び所領を回復した。


 だが、それも束の間、今度は毛利元就が現れ、永禄11年高田城は落城する。そして元亀元年(1570)尼子氏再興に立ちあがった山中鹿介の支援を得てまたまた所領を回復する。


 毛利氏と宇喜多氏の対立の中、両者に挟まれる形の高田城はやがて毛利氏に降伏、美作三浦氏が高田城に戻ることはなく、やがて貞勝の遺児桃寿丸 (宇喜多秀家の異父兄) が地震 (恐らく天正大地震) で亡くなり美作三浦氏の血統は絶える
 
 江戸時代になり、一旦は廃城となったかつての高田城に三浦氏一族の明次が入り、整備を行い勝山城と名付けられる。明和元年(1764)のことであった。以後、明治維新まで三浦氏の勝山藩は存続した。