おれがもっとも尊敬して憧れていた強烈なパワーのヒトで、前にも書いたけどとにかく闘う脚本家のイメージが強く、ってか脚本ってーのは脚本そのものじゃあ作品でもなんでもなく、読者だってプロデューサー監督助監督最初はそこらへんにしかよまれなくて、おっけーが出たって撮影スタッフしか読まれなくて、挙句の果てには天候や思い上がった監督や役者のスケジュールに左右されて現場でロケ先の宿とかで徹夜で助監督連中が足りない頭つき合わせて香盤表を睨んで書き直したりして、とってもかわいそうなの。
んなもんだから専業脚本家はセリフとト書きだけで文学的表現や地文を書いたりすると田舎に帰ってニワトリとやってろ。って言われて石ぶつけられるから、はっきしいって文学にコンプレックス持ってるヒトが多くて、それがそれが野沢尚なのだ。
んでもってここんとこ貪るよーにして「魔笛」「烈火の月」「破線のマリス」「深紅」の4冊を読んだのだ。
「魔笛」意外は全て映画化されてんのだよ。だって「魔笛」は映画化するには問題がとーってもある話しだからな。銭かかりそーだし。
「烈火の月」は北野たけしの「その男、凶暴につき」なのだが内容はもっとヘヴィだぜ。リアリティがどーのとか言ってる場合じゃない。無茶苦茶だろ、これ。地文も一人称いわゆるモノローグと三人称が入り乱れて、一生懸命冒険、ってか実験している文体で、まだまだ未完成なのだがよくやるよ、面白い。
「破線のマリス」は映画観たけどオチで破綻してたのだ。
んでもって、小説の方はキチガイ女の妄想物語って言ってもいーか。迷惑だよなこんな女。んでもって、最近強迫性障害が著しいおれだから、あえて「深紅」の表紙を載せなかったのだ。なぜかとゆーとだね、オチのにゃーにゃが右端に入らないから、偶数恐怖症だから、にゃあ。
んでもって野沢尚、脚本と違って独立した作品として成立している小説には狂気がある。そして己の文体を物にしようとしてあがいている姿がそのまま文体になっている。そして一生懸命狂気になろう、狂気凶器侠気になろうとして不自然にやりすぎているのだ。
当たり前だけど、よっぽど映像化されることを前提にした脚本にストレスがあったのか。
野沢尚はてめーが小説を書くことで、てめーの作品にてめーひとりで責任が持てるといいやがった。
それが全てだ。
わあ、つまんねーブログになっちまったな。
ってか、そもそもブログはつまんねーもんなんだよ。
凄い勢いで生きて作品を残して、わかりやすいコンプレックスを隠していた野沢尚、未完成だから面白いのになぁ、でも自殺する気持ちはわかるのだ。
