海の家、氷あずきとベンチャーズ。
なんと素晴らしい句であろうか、そのものズバリ、日本の夏の風物なのだ。
おれは昭和40年代の生まれなので、世代的にはベンチャーズはエラーしてるのだが、周りの大人たちが寺内タケシとベンチャーズでテケテケ好きのみなさんだったので仕方ないのだ。
ベンチャーズのみなさんは東所沢に住んでいて、普段は狂牛専門の牧場とステーキハウスを経営しているのだ。
ヘヴィな狂牛でも日本人は梅干食べてるからだいじょーぶ。ってな雰囲気がウケて、三キロの狂牛骨髄ステーキを10分で完食したら五千円の賞金、失敗したら五万四千円てな中途半端な料金を請求されることで繁盛しているのだ。
すまん、ウソです。
たぶん日本ではメジャーなバンドのクセに来日しても全然騒がれない唯一の外タレなのだ。
せめて飛行機はビジネスクラスだよな、きっと。
ダイヤモンド・ヘッド、パイプライン、ウォークドントラン、電撃ネットワークで有名なワイプアウトなどのメガヒットを飛ばし、雨の御堂筋、京都慕情、京都の恋、で本当は日本人なんじゃねーの? と疑われ、北国の青い空、二人の銀座で、やっぱり日本人だったかとバレ、朝日の当たる家で10番街の殺人を犯して、キャラバンでレッツゴーしたあとは悲しき街角なのだ。
ちとマニアックに飛ばしてしまったのだ、すまん。
みなさんついてきてね、おれを一人ぼっちにしないでね。
やはり、インストゥルメンタルは曲と腕が勝負だから顔を覚えてもらえないのだろーな。
おれと同年代のダチなんかは、ああ、あのカラオケばっかりのバンド。とか、イトーヨーカ堂でよくかかってるよな。とかのたまうからな。
んでもって、おれが初めてバンドを結成したのは中一の頃なのだ。
おれはギターだったのだが、仲間にベンチャーズは受け入れてもらえずにビートルズやローリング・ストーンズだったのだ。
仕方ない、おれは最年少だっかたからな。
したら世間は高中正義のブルー・ラグーンが流行って、おれのバンドも高中正義になったのだが中学生には難しいよ、フュージョンは。
それからは定番のジェフ・ベック、クイーン、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ジミー・ヘンドリクス、それから子供ばんど、チャー、ピンク・クラウド。
高校になってから、ジャンケンで負けたおれはドラムを叩くよーになったのだ。
ダンス・ミュージックやハード・ブギなオリジナルをやるよーになって、他校の文化祭ライブにゲリラしてたらその高校から苦情が出て出入り禁止になったのだ。
まあ、そもそもゲリラに出入り禁止もあったもんじゃーないのだが。
当時、新宿にルイードってなライブハウスに出演していたのだ、最年少で。
だから対バンなんてーのはデビューしたてのTMネットワークとか、ロマンチックが止まらなくて、どっかにいってしまったCCBとかいて、最年少の恐いもの知らずのおれは、勝手にサインを書いてやって嫌がられてたのだ、小室哲哉に。
やっほっほ。
二十歳になってバンドは解散、おれはギターに戻ってベース、ギター・ボーカルと三人でアコースティックのブルース・トリオを始めたのだ。
入り口は優歌団だが、すぐに戦前のスライド・ギターのディープなブルースにはまり込んで、ロバート・ジョンスン、サン・ハウス、アンプラグドなエリック・クラプトン、それから日本歌謡曲のジャズ・アレンジやスタンダート・ジャズまで始めたもんだから、おれはギターのほかにクラリネット、テナーサックス、ピアニカとかでサウンドの広がりを追求したのだ。
早い話しがリード楽器は吹きゃあ音がでるし、なによりも人手不足だったのだ。
今は河原でブルース・パープを吹くくらいで殆ど楽器は触ってないのだが、カラオケにいってもブルースかジャズしか歌わんし。
今年もアメリカはユタ州にある埼玉市民公会堂にいくのだよ。
やっぱ、夏はアロハ・シャツとベンチャーズなのだ。