地に残る 名のしるしとぞ 忘れまじ
前回少しばかり触れた、「原」を「はる・ばる」と読むという話。
福岡には「はる」と読むところが結構あるのですよね。全体ではなく筑紫から今宿に向けて多い印象があります。有名なところでいうと、「原田(はるだ」がありますが、JRだけではなく、地名として現在の春日市にある白水池を中心にでも「中原(なかばる)」「原(はる)」「浦原(うらはる)」「日佐原(ひさばる)」南区に登り「屋形原(やかたばる)」「桧原(ひばる)」早良区に進むと「駄原(だはる)」「七隈原(ななくまばる)」姪濱(現姪の浜)から今宿に向かって「曾根原(そちばる)」「城原(じょうのはる)」「平原(ひらばる)」「上原(かみのはる)」「北原(きたばる)」「女原(みょうばる)」・・・まだあるか?
面白いのは、ふつうに「はら」と読むところもあるんですよね。生の松原は(まつばら)、早良区にあるのも原(はら)。
ところで、この地読みも実は昔の地名をもとに挙げているので、今の地図と照らし合わせると違う地名になっているところもあります。というのも、もとにしてみている地図が「明治三十五年の福岡」だということ。
「福岡縣筑前國 福岡市、糟屋郡、筑紫郡、早良郡、糸嶋郡」の地図。
大日本帝國陸地測量部発行 定価十二銭也
まだ九州帝大(現九州大学)も設立されておらず、九大病院も「福岡病院」と記載。博多、福岡(天神周辺)、西新から今宿と街道が繋がっていますね。箱崎(筥崎宮)や姪の浜(姪浜住吉神社)といった、神社等の周りを除き、ほぼ田、畑、川、山、池が連なり、当時の福岡は、豊かな自然が広がっていたのだろうと思われます。
福岡ドーム(みずほPayPayドーム福岡)がある百道浜一帯は、西濱射的場となっていました。
陸軍作成の地図なので、等高線から何から詳細に記載されている。福岡城に歩兵二十四聯隊が衛戍(駐屯)したのが、この14年前となりましょうか。
グーグルマップと照らし合わせると、まったく別の世界のようですが、古い神社や寺がついているので、川と一緒に目安にすると、ようやく地理が一致してきます。
福岡は「元寇」の舞台でもあり、鎌倉時代には「鎮西探題」という、幕府の九州における統括機関が設置されました。
この地図にも、ばっちり「探題塚」と記載されておりまして、場所で言うと、姪の浜にある愛宕神社の近く・・・詳細にいえば、姪の浜小学校の裏手にある埴安神社がある処。長柄川の下流は港があったようですが、この一体は後に「早良炭田(炭鉱)」が出来ました。もちろん、この時代は何もありません・・・が気になる表示が「アクマ」・・・あくま?何でしょうな?
・・・と、脱線ばかりしてしまいましたが、今宿より周船寺(すせんじ)から青木あたりに上記の「はる・ばる」が重なっています。かつては伊都国があった周辺ですね。
一説には、原をそのように読むのは朝鮮半島の言語的な影響があるとも云われています。(地形的な読み方からくるという説もありますが)
大昔も関所はあったでしょうが、各地に国があっても、役人が全てを把握できたわけでもなし、それぞれ「離れたところから来た人々」との交流や移住等もあったのではないでしょうか。
その地に根付いている地名だって、人々の交流の内に定着したものも多いと思います。藩をもとに「都道府県」となったのも明治になってからですから、まあだ百五十年そこそこですものね(明治元年が1868年)。市町村レベルになれば、今でも常に変化しているという。
「はる・ばる」読みについて、わたしも、「そんなもんだ」と何ら不思議に思っていませんでした。日本史を習ったにしても、それは日本全体における日本史なので、郷土史レベルで詳細に知ることはそうそうないのかも知れません。
国宝展においても、有名どころは「ああ・・あれね」となっても、それ以外のものは「こりゃなんじゃ?」と目に付くかどうか・・・。今回、その「こりゃなんじゃ?」の部分を刺激されたのは、学芸員さんのセンスといえましょうかねぇ。
その地を知るには、地名を知り、歴史を知り、人を知り。足を運び風土を知り、食を知り、そして好きになっていく。たとえそこが生まれた故郷ではなくても、自らを魅了する地であるのならば、そこはすでに故郷と同じ。廻る季節を知り、道の傍らにある小さな印にさえも、先人が歴史を残してきた静かな語り掛けが行われているのです。彼等の静かな語り掛けに自らも対話できたならば、そこは間違いなく、真からの故郷と成り得るのでしょう。

