伊佐早の広き空 幾年と自然に向かう人々の汗を拭かんや 蒼き風
風車のような形をした長崎の地形。
その中心を留めるのが諌早市(いさはやし)違った・・正しくは「諫早市」
もともと「伊佐早」だったのを、当時の領主西郷氏を破った龍造寺氏が「諫早」へと改めます。今の諫早駅周辺は長崎街道の宿場でもありました(永昌宿)。
長崎街道といえば・・・シュガーロード!
南蛮貿易によって手に入った貴重な砂糖を使ったスイーツが作られたのはご承知の通り。カステラや丸ぼうろなどの様々なお菓子がありますが、「諫早おこし」も忘れてはなりません。
諫早にておこしが作られるようになったのは、干拓による新田開発にて年貢上納の余ったお米を利用したからだそうです。
2005年に、周辺の旧北高来郡飯盛町、森山町、高来町、小長井町、旧西彼杵郡多良見町が合併したので、かなり広大な街となりました。
橘湾、大村湾、有明海(諫早湾)と三つの海に囲まれ、多良岳、雲仙岳といった山々と、諫早平野とよばれる広大な干拓地の合間を一級河川である本明川が流れております。
さて、この諫早市を有名にしたのが、「ギロチン」と比喩された「諫早湾干拓事業」。埋め立てられた堤防の水門を鉄板がダンダンと降りていく映像をご覧になった方もおられることでしょう。潮受け堤防が閉め切られたのが1997年ですから、あれから来年で30年の月日が経つことになります。
諫早湾は有明海のなかでも、入り口の早崎瀬戸と比べると流れも最後の奥まった所になるため、海流がゆるやかで細かい泥が溜まりやすくなります。つまり「潟(ガタ)土」といわれる泥土が堆積していくわけです。この潟土が蓄積していくことを利用して、古くから干拓が行われてきました。然し、潟土の堆積は常に溜まり続けていきます。梅雨時に大雨が降ると、河口域一帯の低地はあっという間に水が溜まり水没することがありました。
潟土が水門を塞ぐ事で、干拓地の排水が流れずに水が溜まる。住民の方も「ミオ筋」と呼ばれる泥攫いのような対策を人力にて行いますが、如何せん台風や大雨といった自然の力の前には成すすべもありませんでした。
諫早湾干拓事業については様々な面がありますが、この一帯に住む方達にとっては冠水による農地の塩害や水没による様々な被害を食い止めるための悲願でもありました。
但し、諫早湾の結構な面積を潮受け堤防にて閉門することになります。当然のことながら、有明海にて漁業を営む方達にとっては、海の環境が変わることによる漁業不振といった被害を被ることにもなります。
漁師さんたちの海の営みと干拓の土地で生きる農家さんたちの大地の営み。それぞれの立場にたつと、どちらかだけが正しいという線引きが出来ないのだと知るのです。
有明海における干拓の歴史はとても長いのですが、人々がよりよく生活するための折り合いを、人と・・・そしてこの地を形成する環境との間にて上手くバランスを保っていけたらいいのにと願わずにはおれません。
長崎の空 第二弾
今回は、閉門後に干拓された中央干拓の「前面堤防中央部公園」から見る空です。
かつては干潟の広がる海であったことさえ忘れてしまいそうなくらいに、すっかり眺めの良い景観地となっていました。春には、土手一面にクリムゾンクローバーの花が咲きほこるそうです。
今は寒さに耐えた茅が辺り一面を覆っていました。
向こうに光っているのはビニールハウスの一連です。長崎県ではこの一帯は貴重な平野。
山々の遥か先が長崎市となります。8月9日のあの日、諫早からは雷の落ちるような轟音とともに、山の向こうに大きなきのこ雲が広がる姿が見えたのだそうです。
そして昭和32年に起きた諫早豪雨では旧市内でも500人以上の方が犠牲となり、諫早市では被害の起きた7月25日には、毎年慰霊祭が執り行われております。
一面の茅が覆う先は今や淡水となった諫早湾の静かな水面。
風景は確かに変わりましたが、たくさんの水鳥たち等が訪れる場となっており、野鳥の観察や撮影をされる方達にもよいスポットとなっているようです。
耳を澄ますと方々から、鳥たちの鳴き声がきこえてきます。右手に雲仙、左手に五家原岳(多良岳山系のひとつ)が見渡せるので、四方を海、山、平地と変化に富んだ景色を眺める事ができます。まあ・・その分、冬は方々から風が吹いてきますが、春になると小麦畑が広がり、初夏を迎えるころには水田がひろがります。また、広大な干拓地となったこの場所も、今では季節ごとに適した農作物を沢山生み出しています。
30年という月日が積み重ねてきた今の生態系も、これから何百年後の先どのように変化しているのでしょうか?
春を待ち、まだ冷たい風に吹かれ揺れる枯草たちも、足元にはすでに若草の萌える準備が出来ている。春よ来い来い春よ来い。
桜の花びらが散り終るころには、この道も緑鮮やかな道へと変貌している事でしょう。


