美味しいものを食べてもらいたいという気持ちで作るのは、料理だと思う。

 

夫が元気な時は、いろいろ工夫して美味しいものをよく作りました。

 

「これ美味しいね。」って言われると嬉しくて、またいろいろ作りたいと思いました。

 

昨日は、お昼ごろに夫のいとこ夫婦が来てくれて、一緒に「魚屋」さんで、お寿司を食べました。そのあとは、我が家で夕方5時ごろまでお茶をしておしゃべりしました。

 

彼女は、夫をまるで兄みたいな感覚でいました。去年も「逢喜の郷」に招待してお肉を食べました。

 

夫が亡くなったことにびっくりしていました。若かりし頃、堺駅の近くのマンションに住んでいました。夫のいとこは、愛媛県に住んでいて、堺市に住む彼氏とお見合い結婚しました。

 

デートの時は、我が家に泊まったこともあります。

 

すごく仲良し夫婦で、一人娘も結婚して今では、夫婦だけで住んでいます。

 

旦那さんは、毎朝、2時間ほど歩くのだそうで、夫の新品の靴(革靴と運動靴)3足もらってもらいました。足のサイズが夫と同じで、気に入ってもらってくれました。

夫は買い好きで、いろんなものいっぱい買っているので、まだまだ新品のがあります。知っている人にもらってもらえてよかったです。

 

料理の話も一杯しました。

 

夫が亡くなった今、いろいろ工夫して料理を作る気がしません。冷蔵庫にあるものを食べるだけで、やっぱり、喜んでくれる人がいないと、自分のためだけには作れないな。

 

生駒の友達から、メールで、胡蝶蘭を送ったから、お供えしてって。

 

有難いことです。みんなに感謝です。

夫のいつも言ってたことは、「一生は一度だけや。ほしい物は買い。食べたいものは食べ。それぐらいのお金はある。辛抱するな。」って。

 

そう、まだ新婚の時。心斎橋を歩いていたら、すごく素敵な総絞りの着物が飾ってあって、私は、その着物に見とれて立ち止まっていました。

 

夫は、その姿を見て「欲しいの?買ってあげようか?」って。「欲しくないよ。あまり綺麗から見ていたの。」と言いましたが,あくる日、また「あの着物いいのか?ほしかったら買ってあげるよ。」って言ってました。

 

私は、小さいころに父を亡くし、母子家庭で育ちました。母の父は、「学問はしっかり身に着けておき。人に盗まれないから。」ってよく言ってました。

 

母は、よく働いて私を大学まで出してくれました。私も、そんな母を見ているから、ぜいたくしないで育ちました。今も,あまり欲しいと思うものはないです。

 

夫も、大学受験の時に父親を病気で亡くし、大学は、奨学金を受けながら、また、自分でアルバイトをしながら授業料を払っていたそうです。

 

でも、夫は、お金には綺麗な人でした。私のお金は、自由に使い、って。生活費に回したことはありません。

 

結婚する時の私の条件は、私の母を大事にしてくれる人だったので、子供が生まれたときに、母は、私たちと一緒に住んでくれ、子供の世話をしてくれました。

 

だから、私も楽しく良く働きました。その母は、92歳で亡くなりましたが。

 

「男は、痛くても痛い。というものではない。」って、よく言ってました。それを貫き通しました。立派です。

 

割り勘も嫌いな人でした。友だちと食事に行っても、夫がお金を出すことが多かったみたいで、夫のスマホにはお礼のメールがよく来ていました。

 

 

息子が大学卒業の年に「就職しようか?」って言ったとき、「お母さんもお父さんもまだまだ働くので、大学院まで行って勉強したら。」「じゃ、そうするわ。」

 

息子が、卒業した時「たくさん学校出してもらったから、恵まれない子の支援をしていく。」って話していたな。

 

この頃は、息子が帰ってくると「何か事業するなら、資金出すよ。」って、よく言ってました。

 

夫は自分のことより、周りの人のことを大事にしていました。夫に「嬉しい時はどんな時?」と尋ねると私が喜んでいるときが一番嬉しいって。

 

常に私を大事にしてくれました。「楽しいことは?」というと「旅行。」って。いろんな珍しいところを見るのが好きでした。色々なところに連れて行ってもらいました。

 

外出した時、私が、夫にバックを預けて、トイレに行くと、私がトイレから出てきたら、必ず自分のハンカチをポケットから出して渡してくれました。

 

いろんなものを買うときも「それいいね、買ったら?」って言ってさっとお金を出してくれました。

 

旅行もいろいろ連れて行ってくれました。でも、すべて夫がお金を出してくれていました。自分のお金は、出したことがありません。自分の車を買うときは出しましたが。でも最初の車のカローラは、夫が買ってくれました。

 

夫が亡くなってから、長男がお父さんのスマホのメールに「お父さんへ。」と書いているのを見ました。

 

それを読んでまた、いっぱい泣きました。お父さんを尊敬し感謝している内容で、これからは、お母さんを守っていく、また、社会に貢献できる人間になる等、書かれていました。次男もそれを読んで「涙が出たわ。」って言ってました。

 

友達から「残されたものは、強くたくましく生きていくのが務めだよ。」って、メールが来ました。

 

子供のためにも、生きないといけないなって思いますが、寂しいです。

 

昨日からもう10人、夫の友達が来てくれてました。今、暫くは、気がはっているけれど、、、。寂しさは、募るばかりです。

 

 

 

 

 

 

 

夫が亡くなりました。8月25日の朝、トイレに行った時、大きな声がして、行ってみるともう歩けなくなっていました。

 

すぐ119番に電話して救急車で病院へ。

 

肝臓の中の門脈が詰まっていて、その上の部分が破裂して出血したそうです。

 

そうなると、そうしている間にもなくなることが多いそうですが、夫は、何とか元気でした。

夏前から食欲もなくなり、少ししか食べていなく、夏バテだと言ってお医者さんから出していただいた漢方役を飲んでいたのですが、、、。

 

前夜、「しんどいけれど、明日は心斎橋に点滴に行こう。約束したことは、守らないと。」って言ってました。

 

病室に入った夫は、それでも元気でいろいろお話していました。26日の朝、スマホから電話があり「朝ごはん食べられないから、食べさせに来て。」って。

 

すぐ行きました。でも、ほんの少ししか食べませんでした。

 

色々みんなにお世話になったことや昔の話をよくしました。

 

「お父さん私と結婚するとき、私を幸せにするって思ったでしょう。幸せにするって、お父さんが長生きすることだよ。」っていうと、「そうだね。」って答えたり

 

「今まで、お父さんは私に一杯いろいろしてくれて、私はいつもありがとうって言ってたよね、今度は、お父さんが退院した時、車いすになるけれど、私は一生懸命お父さんのお世話をして、お父さんにありがとうを言ってもらえるようにするからね。」というと「ありがとう。」って言ってました。

 

毎日2〰3回は、病室に行きました。面会時間はあるんだけれど、付き添いという形で許可してもらいました。

 

5日目に輸血をしてもらったときには「死ぬ気がしないわ。」って。息子たちの前で話し、「美味しいもの食べに行っておいで。」って言ってました。

 

やがて寝てしまうことが多くなり、食べ物も食べられなくなりました。口から入れられないなら、皮膚から栄養を入れようと、外国製のシールをいっぱい貼りました。

 

肝臓で炎症が起きていて、それが胃を圧迫してずっと一日常しゃっくりが止まらなくなりました。

 

どうすることもできないから医者は、「ようすみるしかしかたない。」って。

 

息子は、水素は、炎症を抑えミトコンドリアの働きを正常にしてくれるのでということで「水素発生装置」の機械、を買い水素を毎日鼻から入れました、3日ほどでシャックリが無くなりましたが、もう疲れたのでしょう、もう何も話せなくなり、ほとんど寝ています。

 

急性期の患者は、転院しないとだめだそうで、関連病院を紹介してくれて次男と一緒に面談にも行きましたが「ここは緩和病院で積極的な治療はしません。腕に貼るシールもダメ。ましてや.いろんな器具を持ち込むのは、もちろんダメ。面会も決められた時間だけ。」

 

こんなところに入ったら,家族が後悔するだけ。いろいろ探しました。老人ホーム的なところも、、、。でも、医者は常駐していません。

 

そんな時、息子と親しくしている医者が伊丹市に病院を持っていて「できるだけのことはするし、水素の装置もいいよ。」って言っていただき。民間の救急車で伊丹市の病院に9月27日に代わりました。

 

その時、ドクターは,「もう黄疸も出ているし、腹水もたまっているし今日、明日にでもなくなるかもしれないけれど、静かに見守ってあげようね。」って言われました。

 

私は、近くのホテルから毎日通うつもりでしたが、夫のそばを離れられません。

 

夫のそばでソファーで寝ました。2日に一回東京の息子が飛行機で伊丹へ、それからタクシーで病院へ。おいていた私の車でわが家に連れて帰ってもらい、お風呂に入って休みました。あくる朝は、また車で病院へ、そのあと私が息子を乗せて駅まで送り、息子はそこから伊丹空港から東京へ。

 

そんな生活が1週間続きました。10月4日、血圧も下がり、尿のでも悪くなりました。

 

ドクターも「もうダメかも。」って、ほとんど寝ずに血圧ばかり見ていました。明くる日のお昼ごろに、息を引き取りました。

 

今まで痛い時もあったでしょうが、夫はいつも「男は、痛いなんて言わない。」ってそれを貫き通しました。私はいつも「大丈夫だよ。」って励ましました。すると、言葉は出ないけれど、口パクで「ありがとう。大丈夫。」って言ってました。

 

悲しいです。涙は、もうなくなるほど流しました。でも、できるだけのことはしたので、、、。体があまり丈夫ではなかったけれど47日も耐え、80歳まで生きてくれました。もう今は、夫に感謝しかありません。

 

「ありがとう。お父さん。」