【3月24日】前川裕俊さんを偲んで | 西山夕焼け通信 1970~1979

西山夕焼け通信 1970~1979

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1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
これからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

文:阪本徹

1年2組宍戸学級

3年8組雪嵐学級

 

彼が旅立ってから、もう3年の月日が経ちました。

思えば5歳で京都に来てから

幼稚園~小学校~中学校~高校~大学まで

ずっと一緒の稀有な存在の友人でした。

いつの時代のアルバムを開いても

必ず彼が近くにいて、

きっと互いの存在があって

当然であったように感じていたと想う。

私の愛称「ポコシャ」と、

あだ名の「かっぱ」は

当時の私の頭がキューティクル100%の

サラサラ髪で光が当たると

いつも天使の輪ができて

頭に皿がのっているように見えたらしい。

一方、彼の愛称は、

大原野小学校の同級生なら

みんな知ってる「マエカラさん」だったが、

名付け親はわからない。

仲良しではあるが、

親友というわけではなく

無意識のうちに適度な距離感を保ち、

会って話せば常に心地よい空気を共有できる、

本当に良き幼なじみであってくれた。

 

令和2年の10月、

せっちゃん(9組)からショートメールで

「卓球部の前川君の訃報が届いた」

とメッセージを受け

告別式場へ向かった。

棺におさまった彼を認め、泣いた。

子どものころからのしっかり者で

周囲から信頼され、

いつも学級委員をやっていた。

遊びの帰りが遅くなっても

「前川君と一緒やった」

と親に言えばよかった。

小学校のころ、

秋の稲刈りあとの田んぼで、

バットとテニスの軟球え

朝から日が暮れるまで野球をして遊び倒した。

 

 

あれは昭和62年、

就職して間もないころ、

東向日駅でバッタリ出会い、

「河原町でナンパをやろうぜ」

となった。

マエカラさん曰く

「ポコシャはカッコエエけど服があかんわ。

ビシッときめたら女の子は

絶対に断らへんでぇ」

とそそのかされ、

河原町のバルで選んでくれた服は

メンズ・ビギ。

生涯初といえば

私が初めて買った車も

マエカラさんが見つけくれた

74年式のポンコツビートル。

 

ときはバブル時代。

河原町は出会いを求める男女で

溢れかえっていた。

メンズ・ビギな私は

表面的には最強で、

町ゆく女の子のひっかけ打率は

8割を超えていた。

ただ私の役割は「ひっかけ」だけで、

そのあとは

話術に長けたマエカラさんの出番でした。

マエカラさんは鵜飼いで私は鵜。

鵜がノドまで加えた上物のサカナを

鵜飼いマエカラがノドから吐き出させる。

サカナは鵜を見ていたはずなのに、

すでに鵜飼いを魅せられている。

鵜はその後、

サカナさんの恋愛相談所になってたりした。

 

ふたりとも就職2年目で、

マエカラさんは仕事もバリバリで

結婚も真剣に考えられる状況だった。

一方、私といえば事務仕事のミス連発で

毎日上司に叱られ胃潰瘍を患い、

転職を真剣に考えていた。

私が今の会社に転職したころ、

マエカラさんは彼氏のいる女性に指輪を贈り、

悩み苦しむ彼女に、

「俺を信じられへんのやったら

指輪を返してくれ」と言い放つや

彼女は雷に打たれたように

彼に別れを告げて

帯電した電磁石のように

マエカラさんの方に引き寄せられたのでした。

カッコエエなぁ、俺も一度は真似してみたい。

その8年後、私も今のカミさんと出会い、

婚約指輪を渡したあと、

結婚式の打合せでもめたとき、

思い出したのでした、マエカラさんのこと。

「俺を信じられへんのやったら指輪を返せ!」

と言い放ったところ、

「もらったものは私のものやから、

返してほしかったら、金はらえ!」

に始まり、ボコボコに言い負かされた。

その後、現在にいたるまで

カミさんという鵜飼いの忠実な鵜となり、

毎月給料を届けています。

マエカラさん!

この差はなんなんや!

 

もう一度会いたかったなぁ、

ほんまに逝ってしまったんやなぁ。

こんな昔話を乙中の同級生に公開したら

マエカラさん、怒るかなぁ。

また、来世で一緒に遊んでくれるか?

俺のゴキゲンなポンコツビートルで

ナンパにいこか。

マエカラさん、本当に楽しかったよ。

ありがとう。