世利ゆかりさん
せりべん
大原野小卒
1年6組新井学級
2年12組臼井学級
3年5組小谷学級
女優としてテレビや映画で活躍。
2026年4月3日ご逝去。
ゆかりさんの生前の様子を
弟の秀一さんに語っていただきました。
仲睦まじい夫婦で
20余年、
姉は横浜で幸せに
暮らしていました。
世利秀一 実弟
4月3日と思われます、
姉のゆかりが亡くなったのは。
というのも、
横浜市で、ひとり暮らしをしていた
姉の病死がわかったのは、
4月5日でした。
お医者さんは
「4月3日には亡くなっていた」
と診断したそうです。
4月3日は3人兄弟の末っ子の
妹の誕生日でした。
その妹の子どもが東京にいて
電話をしても出ないと心配して
横浜のマンションを訪ね、
管理人さんに鍵を開けてもらうことにーーー。
病死でした。
昨年3月に実母を亡くし、
昨年11月に旦那が急逝したばかり。
姉はふたりの後を追うように
旅立ちました。
姉が『遠山の金さん』(主演:高橋英樹)
などテレビドラマに出始めたのは
二十歳のころだったでしょうか。
そのころは今の洛西髙島屋近くのマンションに
一人で暮らしていました。
華やかな世界に入るやいなや、
役付きとして人気時代劇にレギュラー出演。
それは姉は弟から見てもキラキラしていましたよ。
太秦撮影所にいるころはほとんど時代劇でしたが、
拠点を東京へ移してからは、
ドラマ『太陽にほえろ!』や、
映画『陽暉楼』『修羅の群れ』
といった現代劇にも出ていたんです。
それでもいつしか、
自分で女優としての
限界を知ったんでしょうね。
演者としては見切りをつけて、
それからは芸能プロダクションの
事務仕事、裏方として仕事を
続けていました。
で、結婚して家庭を築いたのは
40歳のころだったと思います。
それからは
年上の建築会社の取締役と
夫唱婦随の暮らしが
20年余続いていました。
遠く離れた地で暮らしているので
実際はわかりませんが、
ありていに言うと
仲睦まじいふたりに見えました。
故郷のことを覚えているか?
それが昨年3月に
実母の葬儀でホント久々に
帰郷したときは京都駅の八条口
といってもわからないぐらい
覚えていませんでしたけどね。
同窓会の件で、50歳のときも
この前に60歳のときも私が
昭彦君(齋藤:8)から言われて
姉に打診しました。
そのときは都合が合わず
出席できませんでした。
そのときに
昭彦君、晴彦君(12)
の兄弟のこと。
私が今仕事を一緒にしている
イモさん(2)のことを話すと
懐かしそうにしていましたからね。
だから、乙中のみなさんのことも
覚えていたと思います。
今回、訃報をこのブログで
知らせたことによって
いろいろと問合せがあったとか。
実弟の私から、
姉に成り代わり申し上げます。
「乙中のみなさま、
お世話になりました」
世利ゆかりさん、
生まれてきて
よかったでしょ!
下田修司
今月にはいって間もないころに
旅立たれたようですね。
お会いできずに残念です。
私は4年生の時に向陽小学校から、
大原野小学校に転校し、
彼女とは5、6年生で
同じクラスでした。
朝礼でグランドに男女別に
背の順番で整列するとき、
いつも同じような場所に並んでました。
黄色の通学帽を被ってる
児童が多いなかで、
彼女は黄色一色の
毛糸のかわいいニット帽を
被っていたことや、
夏場は、幾度かめまい(貧血?)
のような症状を呈してられ、
子どもながらに
「大丈夫?元気になって」
と思ってました。
当時、児童が欠席すると、
給食の食パンを生のまま
ザラ版紙に包み
誰かが下校時に自宅まで
届けるのです。
彼女の場合、通学路の関係で
それは私の役まわりでした。
大原野の幹線道路から一筋入った
道の突き当りに
住まわれていたように思います。
その道は自動車が
一台通れるくらいの砂利道で、
土木作業に従事されている方たちの
長屋の住居が建ち並び、
10軒はあったと思います。
それ以上だったかも。
そのなかほどにカニ(5組:澤田)
も住まわれてました。
一番奥に作業されている方たちの
食堂があって、
そこでお母さんがいつも
お仕事をされてました。
「ゆかりちゃんのパン」
って言って先生から預かった
プリント類とともに届けるのです。
6年生の学芸会でのことです。
劇の配役を決めることとなりました。
劇名も役柄も忘れましたが、
彼女と私が主役だったか
準主役級の役だったかに
手を挙げたのです。
数日後どちらを選ぶかということになり、
クラスみんなの前で、
役の一部を演じ選んでもらうことに
なったのです。
彼女の演技をみて、
「あっ、上手や」
って感じたのは覚えてます。
結局、彼女が選ばれ、
私は別の役に回されました。
当時から、演じることの
才能があったのでしょう。
彼女は、大人しい性格で
今思えば聡明な感じの
子だったように思います。
弟さんと妹さんがおられ、
2歳くらいずつ
離れていたんじゃないかなぁ。
このお二人は元気いっぱいの児童で
ランドセルを背負いながら
走り回って登校してましたね。
中学生になると彼女もテニス部で、
田原さん(3組)とペアを
組み休まず練習をしてました。
熱心でしたよ。
もうその頃はめまい症状も
回復していたんでしょうね。
女優になられ、
『遠山の金さん』に
出演されていたのは
記憶にあります。
映画『陽暉楼』
は劇場に観にいきました。
エンドロールで
「世利ゆかり」と流れたのが
うれしかったのと、
劇中は、見落としてしまったのかなぁ
という少し悔やしかった思い出があります。
人それぞれの人生、
華やかな世界に身をおき
ご苦労の多かったことと存じます。
弟さんのコメントを読ませていただくと、
彼女の後半生は幸せだったようです。
映画『男はつらいよ お帰り 寅さん』
のなかに、
「……ああ
生まれてきてよかったなって
思うことが何べんかあるじゃない。
そのために
人間生きてんじゃねえのか……」
っいう寅さんのセリフがあります。
世利ゆかりさんの人生にも
そのような
「生きててよかった」と
思えることが
何度もあったのだとーーーーーー。
そう想い、ご冥福を祈ります……。
合掌。
ジャレ合っていたような
せりべんとの中3の日々が、
キラキラした想い出です。
山本悦子(5)
中3の1年間、
5組でいつもいつも一緒だった4人組。
せりべん、チコ(清水)、コンメ(恋田)、
そしてアタシ(えっちゃん)。
なにを話したのか……?
想い出せない(笑)。
ただジャレ合っていた
だけのような気もします。
せりべんの訃報に接し、
卒業以来、
会っていなかったことを想いました。
「どうしてるんかな?」
いつも、どこかで思っていました。
あぁ、コンメ、チコも元気かなぁ。
4人の日々を想うと、
せりべんの笑顔や笑い方が
まざまざと蘇ります。
他愛のない会話が
キラキラした記憶なんです。
なぁ、チコ、コンメ……、
そう思わへん?
だから、3人で一緒に言いたい、
「せりべん、
キラキラした日々をありがとう」