【1月14日】橋本先生と雪嵐先生を偲んで | 西山夕焼け通信 61春

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橋本先生と雪嵐先生の

訃報をよせてくださった、

渋谷さんが追悼文を

寄稿してくださいました。

 

文:渋谷美紀(3年8組)

橋本先生と

雪嵐先生には中学を

卒業して45年間

年賀状を出しておりました。

 

橋本先生の訃報を

ご家族からお聞きしました。

雪嵐先生に今年、

令和6年も年賀状を出しました。

同窓会のことを

直接お話したくて

3日にご自宅に電話しました。

先生の妹さんから

令和5年11月に

お亡くなりになったことを

知らされました。

残念というか無念でなりなせん。

橋本先生と雪嵐先生を偲んで、

私の思い出を語らせて下さい。

 

橋本久雄先生

(英語教科担当、2年6組、3年7組担任)

橋本先生と言えば、

掃除という言葉を思い出します。

2年6組になってすぐの事でした。

男子が掃除をしないで遊ぶので、

女子達が先生に注意してもらおうと

言いに行ったら橋本先生は

「男子はほっといて

女子だけで掃除すればいい」

と…私達は

「女子だけなんて不公平だ」

とかなんか言ったと思います。

すると先生は「わしが掃除する!」と。

橋本先生は本当に一人で

教室の掃除を始められたのです。

無言で掃除をしている先生を見て

私達も掃除をしました。

ただ掃除をしているだけなのに

先生と一緒だと掃除が楽しく

男子の事も気にならなくなったのです。

橋本先生は教師=教え諭すではなく、

先生=生徒を(先に)導く方でした。

物事をネガティブに

考えるかポジティブに考えるかは

自分次第だという事を

教えて下さったように思います。

退職されてからは

「橋本一心」と名乗り

お寺で修業なさって

いらっしゃいました。

一度だけお寺に訪ねたことがありました。

「朝は掃除をして昼は半紙は

もったいないから

新聞紙に写経を書いている」

と、橋本先生らしいですよね。

 

雪嵐タカ先生

(数学教科担当:2年11組担任、3年8組担任)

3年8組の担任だった雪嵐先生は、

令和5年の年賀状に

80歳になるけれど

元気にしておられる

と書いてあったので

3月30日にお会い出来ると

思っておりました。                                                               

正直に言って

私は雪嵐先生が苦手でした。

3年になってすぐに

リッコ(五十嵐Rさん:3年8組)

と呼び出され、

評議員前期は私で

後期はリッコがなるように

指示されました。

何で先生が勝手に決めるのか…

そんな雪嵐先生のやり方が嫌いでした。

しかし、先生と話しを重ねていく中で

8組一人ひとりの生徒のことを

考えていられることを知り、

一生懸命に進路指導をして下さいました。

卒業式を終えて

1週間も経たなかったころ、

父が事業に失敗して

京都を出て(夜逃げです)

私は親戚の家に行くことになりました。

リッコにだけは連絡をして、

高校には行かないつもりだと告げると、

「雪嵐先生のとこ行こう」

そう言われて乙中の宿直室で

先生に会いました。

先生は「絶対高校には行きなさい‼」

と𠮟咤激励して下さいました。

雪嵐先生に会っていなければ、

高校へは行かなかっただろうし

今とは違う人生を

歩んでいたと思います。

 

私にとって、

お二人はとても大事な恩師でした。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

向陽小入学~三向~大原野小卒

1年11組児玉学級

2年6組橋本学級

3年8組雪嵐学級