【12月24日】中川眞由美さんを偲んで | 西山夕焼け通信 1970~1979

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1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
これからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

中川眞由美さん

まゆみ:向陽小卒

3年11組小倉学級

2022年12月29日ご逝去。

 

 

あんな元気な眞由美が……

まだ受けとめられない

浅野(中村)和美

11組小倉学級

 

眞由美の訃報を知ったのは

今年の8月でした。

向陽高校ハンドボール部の

同窓会をしようと

グループラインで

やりとりしていたんだけど、

眞由美だけつながらない。

携帯も。

それで眞由美が暮らす

大阪のお寺に電話してみたんです。

わかったのは、

昨年の12月29日に亡くなったこと。

携帯電話にロックがかかっていて

お友達には連絡できずに

葬儀をすませたこと。

これぐらいでした。

 

眞由美が亡くなっていた。

高校の友達たちも

ただ驚くばかり。

受けとめようがありません。

だから、私とあけみ(長2中)で

眞由美の実家の

お母さんを訪ねたんです。

そこで詳細がようやくわかりました。

彼女はもともと心臓が悪かったのですが、

脳梗塞で倒れたそうです。

12月20日すぎのこと。

普段とかわりなく

「2階で本、読んでいる」

と家族に言って寝室へ入ったそうです。

家族が意識のある眞由美の姿を見たのは

これが最後でした。

異変に気づいた家族が病院へ。

命はありましたが、意識は戻らず

12月29日を迎えたそうです。

 

小学5年~6年と

向陽小で

同じクラスだった眞由美。

もう50年ですね。

乙中のとき、

女子って手紙のやりとりとか

交換日記をするのが

流行ってたじゃないですか。

私の相手は眞由美でした。

A4のノート1冊を1週間で

使い切ったことも!

それこそ恋バナ、クラスのこと、

芸能界のこと……。

たがいに思っていることを、

遠慮なく書き綴っていたんです。

彼女はもともと心臓が弱く、

体育の授業も休むことが

多かったと思います。

芸術家肌で、

絵や音楽が得意でしたね。

高校に入ってからは

私が自転車で眞由美の家に迎えに行き

彼女と二人乗りをして通学。

私が入ったハンドボール部の

マネージャーが眞由美でした。

四六時中一緒。

彼女の家で夕飯を食べるなんて

いつものことでした。

眞由美は、

一つ上の学年の人たちとも

仲が良くって、

バンド活動もしたりして、

私も彼女のつきそいで

よく音楽スタジオに行ったなぁ。

大学では音楽活動を続けつつ

教員免許をとって。

大学で知り合った男性と

卒業してすぐに結婚したんです。

彼氏はお寺さんの次男。

それが問題だったみたいで

先方のご親族からは

大反対されていました。

ちょうどそのころ、

母校の乙中(当時:勝山中学)で

国語の教師もしていたんですよ。

それから彼が勤めていた

滋賀県の紫香楽で

夫婦生活が始まりました。

眞由美は結婚しても専業主婦には

おさまらなかったようです。

自宅で学習塾を開いていたんです。

いかにも眞由美らしい。

 

30半ばでご主人の実家、

お寺さんへ。

坊守さん(住職の奥さん)として

迎えられた眞由美。

朝の4時~5時に起きて、

家事はもちろん、

ご主人(住職)のお世話をしながら

お寺の事務作業、

そして大事なのが檀家さんのお世話。

そんな日々を過ごしていましたが、

みなさんが知ってのとおり

眞由美は

あの明るい性格、

あの笑顔で接していたので

檀家さんからの評判もよかった。

それでも

「今日は琵琶湖へ行って

 絵を描いてくるわ」

と少ない休日は

好きな絵を描いて過ごしていました。

 

眞由美をよく知る私が

太鼓判を押します。

眞由美は

“みんなから好かれる人”だったと。

でも、

私は眞由美がいないことを

まだ受けとめられないでいます。

 

 

 

笑顔の記憶しかない

三井(塩尻)真里

:4組林学級

中川眞由美さんの訃報、

たいへん驚きました。
あんなに元気な人が何で?

と思います。
小学生の時、毎日のように、

お家で、一緒に遊びました。
明るく利発で、いつも笑顔でした。
小さい弟さんには、優しいお姉さんで、

私も頼りにしていました。
眞由美ちゃんの 笑顔の記憶しかない。
早すぎるご逝去残念です。
心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

捨てられない1枚のハガキ

文:せつひろし(9組)

電話番号を消せないでいる。

ずっとスマホに残る名前。

今年の7月、

彼女に送ったメッセージ。

「乙中同窓会をやることになった

 連絡取りたい」

1ヶ月待っても返信はなかった。

勝西陽子さん(4組)から

ラインで訃報が入ったのは、

1か月後のことだった。

2022年、12月29日、

中川眞由美さん(11組)、

ご逝去。

この同窓会を始めるとき

最初に発起人のお願いで

手紙を送ろうと思ったリストに

彼女の名前を挙げた。

彼女は

2013年1月3日の乙中学年同窓会、

2016年8月17日の向陽学年同窓会と、

来られるはずもなかった。

「坊守(お寺の奥さん)を

しているのでお盆と正月は

寺をあけられません」

連絡したのは今回の同窓会の日を

3月下旬に決めたから。

彼女とは高校卒業以来、

42年ぶりの再会を期待していた。

 

高3年のとき、

彼女と久々に同じクラスになる。

小6以来だから5年ぶり。

秋のことだった。

ボクは週に1回、学校をサボって、

名画座3本立てで1日過ごすのが

習慣となっていた。

「私も行ってみたい。

映画館でお弁当食べるんやろ」

西向日駅で待ち合わせ、

八坂さん近くの祇園会館へ。

その帰り、

彼女が知っているジローという

四条河原町近くの喫茶店へ。

薄暗い店内、テーブルにランプ。

カップル専用のような雰囲気。

彼女はそのころ恋をしていた。

1つ年上の先輩。

想いが通じないのか、

ときおり深刻に、

それでいて何度かのデートを

楽しそうに話し続けた。

ジローも彼に

連れて来てもらった店だった。

 

その年の暮れ。

彼女が向日市民会館のステージで

『キッスは目にして』を歌ったのを

覚えている。

オールディーズナンバーのバンド。

ベースがよしかず(11組)、

ギターが築さん(8組)、

ほか仲のいいマルキ(長二)が

ギターだったので

何度か練習に遊びに行っていた。

部活ではマネージャーだった

中川眞由美さん、

本来は表現したい人だったのかも知れない。

ヴォーカルとして

表現力豊かに

生き生きと歌いあげていた。

 

2016年、電話でのこと。

「ワタシ、乙中のときに

 国語の授業をする澤田先生(3組担任)

 に憧れててん。

 それで大学で教員免許をとって

 勝山中学でしばらく先生やってた。

 将来の夢はかなえたんかなぁ」

嬉しそうに話していた。

 

10年前の乙中同窓会の

返信ハガキに残る自筆の文字。

「発起人や幹事の

 みなさんの名前を

 見るだけで、

 目頭が熱くなりました。

 ありがとう、せっちゃん」

 

消せない中川眞由美の電話番号。

捨てられない1枚のハガキ。