【乙訓ジュブナイル】ブルの乙中が始まる | 西山夕焼け通信 1970~1979

西山夕焼け通信 1970~1979

Magazine Style Blog
Since2023・11・1
新規記事配信休止中


1970年に小学校に入学し、
1979年に中学を卒業した彼らも
すでに60代になった。
これからの人生を
西山の夕焼けのごとく
あざやかに彩るために配信していきます 

ぼくの乙中クロクニル

Episode1

著:Nブル

三向卒:

中川H:1年2組、2年4組、3年4組

バレー部


Episode1
1976年4月、

乙中入学。

1年2組S戸学級。

S戸先生は新人で教師一年目。

数学のS藤先生が
副担任だった。K森がいた、

O藪さんがいた、S藤くんがいた、

M下くんがいた、T内さんがいた。
 

S戸先生はとにかく燃えていた。

4月早々合唱コンクールの練習が始まった。

自由曲は「自由なる大地へ」。

圧倒的な練習量で優勝した。

文化祭は演劇だった。

不良少年が更生するドラマだった。

班長会で事前に舞台を見に行った。
バレー部に入った。

吹奏楽部にも惹かれたが運動部を選んだ。

高校では野球をすると決めていたが、

バレー部にした。

理由は、

バレー部が練習厳しく鍛えられると思ったから、

一つ上の2年生がいなかったので

すぐに試合に出られるチャンスがあったから、

S戸先生に強く押されたから……、

野球部には怖い先輩がいたから……だった。
しかし、バレー部の先輩もたいてい怖かった。

セッターのN川さんは優しかったが、

U野くんはいつも帰り道にカバンを一年に持たせた。

でも、そんなに嫌じゃなかった。

先輩という存在が、新鮮だった。

当時、二歳上というのは、

とても大人に見えた。
 

バレー部は丸刈りと決まっていた。

I西は最後まで嫌がっていた。

「やめる」とまで一度は言っていた。

でも、やってみると意外に楽になった。

何より頭を洗うのが格段に
手っ取り早い。
 

S戸先生は部活でも熱血そのものだった。

夏休みに入り3年生が引退となり、

1年のみの
新チームになった頃、ビンタをし始めた。

女子バレーのG野先生に感化されてやり始め
たとボクらは思っていた。

(女子バレーはそれが日常だったのだ)
 

ボクの初恋は、文通と窓越しの会話という、

青春ドラマでも気恥ずかしくて

書けないような物語として始まった。

彼女は木造校舎の2階、

ボクは1階だった。その窓越しに、
できそこないの手話のような会話だった。

それでも完璧に意思の疎通ができていたのが奇跡だった。

K西が時々ボクらの会話を邪魔した(気がする)。
 

手紙はどんな内容を書いていたか、

もう思い出せない。

ただ彼女は聡明で、自分はへたくそで、

いつも焦っていたように思う。
 

彼女はそろばん教室(西京都学院)に通っていた。

ボクは週に一回、桂まで習字を習いに行っていた。

その帰り、森本町のガードを

上がったところにある西京都学院から

彼女の家まで二人乗りで帰るその時だけが、

二人の時間だった。ほんの数分だったが。
(ちなみに西京都学院のエースは、

同じ専売アパートに住むK島だった。

そろばんの全国大会に何度も出ていた。

小さいころからの友だちで、

ボクは彼をいつも尊敬していた)
 

ボクは密かに結婚を「決心」していた。

それは純粋だったからか、

否、妄想はげしき単細胞の塊だった。
 
中学1年を思い返すと、

とてつもなく大きなものを前に、

のみこまれそうになる自分に
ムチを入れ、必死に走っていたように思う。

周りを見る余裕も、自分自身をつかまえる

余裕もなかった。

大きなものとは、

複数の小学校から集まった人の多さ

自分とは違う個性の数々であり、

先輩という存在であり、

部活の厳しさであり、

クラスの様々な活動だった。

(最も多くの時間を費やしたはずの

授業は全く記憶の片隅にもない)
 

身長が150㎝そこそこから、

一気に20㎝くらい伸びた。

まさに骨がみしみしと音を立てて、

ボク自身を変えていった。

自分は何者になっていくのか、

どこへ向かっていくのか……。