純恋小説 光がさす時2
「高校時代が懐かしいなって思って」
「そういえば、野田には驚かされたね。人気者だったのに、あんなおじさんになるとは思ってもみなかったよ」
田中君は、ハッハッハと軽快に笑い、タクシーを捕まえようと手をあげた。タクシーはすぐに止まり、自動ドアを開けた。先に私を奥へと座らせて、一緒に乗り込んだ。
たったそれだけなのに、また胸はドキドキしはじめる。男の人と二人きりっていうのも、久し振りね。
それに、田中君は女の人の扱いに慣れているのか。私の体に触れる手が優しかった。
「恵比寿駅の方へお願いします」
行先を告げると、タクシーはドアを閉めて走り出す。薄暗くなり始めた窓の外は、ビルやレストランの明かりが見え始めた。いつもと違う景色に、夫以外の男の人と二人きり。こんなシチュエーション、ドラマだったらきっとラブホテルに向かうんだわ。そして、一夜の過ちを犯してしまうのね。
想像したけれど、私には無理ね。好青年の人と一夜限りのメイクラブ。それは、若い頃だけで充分だわ。体を重ねたいと思う心もなくなって、考えるのは子供達の将来のことばかりだもの。
「金沢さん、大丈夫?静かになったけど」
私がいきなり物思いにふけったものだから、心配したのか。田中君は、息がかかる程顔を近づけてきた。後少しでキスが出来る距離。でも、私は瞼を閉じることなく、微笑んだ。
「大丈夫よ。子供のこと思いだしてたの。もうすぐ家に帰ってくる頃だなって」
「・・・忘れなよ、今は」
「田中君?」
息がかかりそうな程近い顔。唇が重なろうとする。思わず、瞼を閉じようとしてしまったけれど。私にはやはり出来なかった。夫や子供を裏切るようなことなど。久し振りに、胸の高鳴りを感じることが出来ただけで、私は嬉しかった。
「ダメよ、田中君。私、結婚してるし、子供もいるから」
唇が重なりそうな程近づいた所で、彼の柔らかな唇に人差し指をそえた。彼の瞳はまた寂しそうに見えたが、気にすることなく笑ってみせる。
「やっぱり、家に帰るわ。子供達のこと、心配だし」
「会社で休んでいきなよ。もうすぐだし」
「大丈夫。ありがとう。運転手さん、ここで止めてくれますか」
もうすぐ赤信号になる所で、車は止まった。タクシー代を1000円分だけ座席に置いて、すぐに車を出る。田中君は待って、と言っていたが待たなかった。ありがとう、またね。それだけを告げて、ドアを閉め、急いで歩道へと向かった。もう酔いは覚めていた。過ちを犯してはいけない。その気持ちが、私を現実に戻した。
「そうよ、私には子供もいるんだから」
自分に言い聞かせながら、駅の方へと向かった。ここから駅へは遠そうだと思ったけれど、構わなかった。運動不足だし、たまには歩かないとね。
「もしもし、玲奈?どうしたの?」
『今どこにいんのー!お腹空いたー!』
「言ったでしょ、お母さんは同窓会で東京に来てるって。家に帰るのは八時くらいになるわよ。ご飯もおかずも冷蔵庫に入ってるから、温めて食べてね」
『違うのー、それをバカ晴樹が全部食べちゃってさ!私が食べる分なくなっちゃったの!』
「そ・・・そう。じゃぁ、カップラーメンの買い置きが台所の下の棚にあるから。それ食べてなさい」
『えー、カップメン?しょーがないなー!早く帰ってきてよ!』
歩き出すと、娘の玲奈から電話がかかってきていた。夕飯の催促の電話だったのだけど、どうやら一番下の息子が全て平らげてしまったようだ。きっと、サッカー部でたくさん運動してきたんだわ。
多めに四人分作ったのに。全部平らげるなんて、どんな胃袋してるのかしら。痩せの大食いは、夫に似たのね。帰ったら、早速ご飯を作らないとだわ!
数日後。
毎日の退屈な日に訪れた同窓会の知らせ。久し振りに感じた胸のときめきを思い出しながら、高校生くらいの頃ラジオでよく流れていたAmbrosiaのHow Much I Feelを流す。
D・PACKの声も顔もうろ覚えながらに思いだしながら、憧れたなと少し笑った。
That's how much I feel for you baby How much well I need your touch . . .
この言葉の意味は今でもなんとなくしか分からないけど、愛のあるセリフなんだろうな、と思う。
田中君とのことは、胸に秘めて、またいつもの退屈な日を送る。それでも、良かった。おばさんになった私を可愛いと言ってくれたこと。少しでもキスしたいと思ってくれたこと。
それだけで、若返ったような気がした。私はまだ、女として魅力があるのかしら?と少しだけ勇気づけてくれた出来事。
それが分かっただけで、私は充分よ。それからの展開は、お昼のドラマで楽しめばいいことだし。私は、一線を超えないわ。夫と子供達のためにもね。
「さて、洗濯しないとね!」
退屈な日々に疲れるけど、D・PACKの声に励まされながら、自分を奮い立たせた。これからも、子供達の騒々しい声に文句を言って、夫の夜遊びを黙認する毎日が始まる。
それでもいいわ。また、頑張れる。あれだけ、たくさんのお酒を飲んで、子供のようにはしゃいだんだもの。たった一日の解放日。それだけで、私はまた頑張れる。
「さぁ、洗濯に掃除に!お母さん、張り切っちゃうわよ!」
誰もいないリビングで、少し大きな声を出した。庭には、雀たちが遊びに来ている姿が見えた。
もうすぐ寒い冬が始まる。そろそろこたつを出す頃かしら、そんなことを考えながら主婦の仕事を始めた。快適な暮らしをするために、家を綺麗にしないとね!
「そういえば、野田には驚かされたね。人気者だったのに、あんなおじさんになるとは思ってもみなかったよ」
田中君は、ハッハッハと軽快に笑い、タクシーを捕まえようと手をあげた。タクシーはすぐに止まり、自動ドアを開けた。先に私を奥へと座らせて、一緒に乗り込んだ。
たったそれだけなのに、また胸はドキドキしはじめる。男の人と二人きりっていうのも、久し振りね。
それに、田中君は女の人の扱いに慣れているのか。私の体に触れる手が優しかった。
「恵比寿駅の方へお願いします」
行先を告げると、タクシーはドアを閉めて走り出す。薄暗くなり始めた窓の外は、ビルやレストランの明かりが見え始めた。いつもと違う景色に、夫以外の男の人と二人きり。こんなシチュエーション、ドラマだったらきっとラブホテルに向かうんだわ。そして、一夜の過ちを犯してしまうのね。
想像したけれど、私には無理ね。好青年の人と一夜限りのメイクラブ。それは、若い頃だけで充分だわ。体を重ねたいと思う心もなくなって、考えるのは子供達の将来のことばかりだもの。
「金沢さん、大丈夫?静かになったけど」
私がいきなり物思いにふけったものだから、心配したのか。田中君は、息がかかる程顔を近づけてきた。後少しでキスが出来る距離。でも、私は瞼を閉じることなく、微笑んだ。
「大丈夫よ。子供のこと思いだしてたの。もうすぐ家に帰ってくる頃だなって」
「・・・忘れなよ、今は」
「田中君?」
息がかかりそうな程近い顔。唇が重なろうとする。思わず、瞼を閉じようとしてしまったけれど。私にはやはり出来なかった。夫や子供を裏切るようなことなど。久し振りに、胸の高鳴りを感じることが出来ただけで、私は嬉しかった。
「ダメよ、田中君。私、結婚してるし、子供もいるから」
唇が重なりそうな程近づいた所で、彼の柔らかな唇に人差し指をそえた。彼の瞳はまた寂しそうに見えたが、気にすることなく笑ってみせる。
「やっぱり、家に帰るわ。子供達のこと、心配だし」
「会社で休んでいきなよ。もうすぐだし」
「大丈夫。ありがとう。運転手さん、ここで止めてくれますか」
もうすぐ赤信号になる所で、車は止まった。タクシー代を1000円分だけ座席に置いて、すぐに車を出る。田中君は待って、と言っていたが待たなかった。ありがとう、またね。それだけを告げて、ドアを閉め、急いで歩道へと向かった。もう酔いは覚めていた。過ちを犯してはいけない。その気持ちが、私を現実に戻した。
「そうよ、私には子供もいるんだから」
自分に言い聞かせながら、駅の方へと向かった。ここから駅へは遠そうだと思ったけれど、構わなかった。運動不足だし、たまには歩かないとね。
「もしもし、玲奈?どうしたの?」
『今どこにいんのー!お腹空いたー!』
「言ったでしょ、お母さんは同窓会で東京に来てるって。家に帰るのは八時くらいになるわよ。ご飯もおかずも冷蔵庫に入ってるから、温めて食べてね」
『違うのー、それをバカ晴樹が全部食べちゃってさ!私が食べる分なくなっちゃったの!』
「そ・・・そう。じゃぁ、カップラーメンの買い置きが台所の下の棚にあるから。それ食べてなさい」
『えー、カップメン?しょーがないなー!早く帰ってきてよ!』
歩き出すと、娘の玲奈から電話がかかってきていた。夕飯の催促の電話だったのだけど、どうやら一番下の息子が全て平らげてしまったようだ。きっと、サッカー部でたくさん運動してきたんだわ。
多めに四人分作ったのに。全部平らげるなんて、どんな胃袋してるのかしら。痩せの大食いは、夫に似たのね。帰ったら、早速ご飯を作らないとだわ!
数日後。
毎日の退屈な日に訪れた同窓会の知らせ。久し振りに感じた胸のときめきを思い出しながら、高校生くらいの頃ラジオでよく流れていたAmbrosiaのHow Much I Feelを流す。
D・PACKの声も顔もうろ覚えながらに思いだしながら、憧れたなと少し笑った。
That's how much I feel for you baby How much well I need your touch . . .
この言葉の意味は今でもなんとなくしか分からないけど、愛のあるセリフなんだろうな、と思う。
田中君とのことは、胸に秘めて、またいつもの退屈な日を送る。それでも、良かった。おばさんになった私を可愛いと言ってくれたこと。少しでもキスしたいと思ってくれたこと。
それだけで、若返ったような気がした。私はまだ、女として魅力があるのかしら?と少しだけ勇気づけてくれた出来事。
それが分かっただけで、私は充分よ。それからの展開は、お昼のドラマで楽しめばいいことだし。私は、一線を超えないわ。夫と子供達のためにもね。
「さて、洗濯しないとね!」
退屈な日々に疲れるけど、D・PACKの声に励まされながら、自分を奮い立たせた。これからも、子供達の騒々しい声に文句を言って、夫の夜遊びを黙認する毎日が始まる。
それでもいいわ。また、頑張れる。あれだけ、たくさんのお酒を飲んで、子供のようにはしゃいだんだもの。たった一日の解放日。それだけで、私はまた頑張れる。
「さぁ、洗濯に掃除に!お母さん、張り切っちゃうわよ!」
誰もいないリビングで、少し大きな声を出した。庭には、雀たちが遊びに来ている姿が見えた。
もうすぐ寒い冬が始まる。そろそろこたつを出す頃かしら、そんなことを考えながら主婦の仕事を始めた。快適な暮らしをするために、家を綺麗にしないとね!
純恋小説 光がさす時1
「お母さん、私のDSどこ!」
「お母さん、俺の体操着は?」
「母さん、俺の携帯は?」
毎朝忙しい。17歳、高校二年生の娘と15歳、中学三年生の息子と、20歳、大学二年生の息子。
三兄弟に恵まれたことは嬉しいけれど、毎朝騒々しくてノイローゼになりかけることもしばしば。
夫は某テレビ局のプロデューサーを務めているため、仕事場で夜を明かすこともあって、あまり家には帰って来ない。仕事で忙しいふりをして、キャバクラやら風俗やらに行っていることは知ってるけど、家計に影響する程遊んでいるわけではないから、気にしない。
私、金沢栄子45歳。もうすぐ46歳になるけど、相変わらず単調な日々を送っている。
別にそれを嫌だと思うことはないし、子供たちは反抗期があっても、私とは会話してくれる。
平和であり、つまらない日々。それでも、何事も起きないことが幸せだったりするのかしら。
朝9時過ぎ。子供たちが学校へ着く頃には、洗濯機を回して、リビングに掃除機をかける時間。
毎日綺麗にしているのに、子供たちのお菓子の食べカスがあちこちに散らばっていると、ムッとしてしまう。
「全く、床の上ではお菓子食べないでって言ってるのに」
何度言っても聞かないから呆れてしまう。テレビをつけると、まだニュースの時間帯。掃除機の音でテレビの声は聞こえないけど、繰り返し同じニュースを放送しているから、聞く必要もないかしら。
「さてっと、リビングの次は和室ね」
リビングでの掃除を終えて、次に和室へ向かった。すると、息子の吸っている煙草の匂いが充満していた。
「あれほど、この部屋では吸わないでって言ったのに!」
私は怒る毎日だ。和室の窓を開けて、空気を入れ替え、ファブリーズを部屋中にかける。すぐにミントの香りが漂い始めたが、和室にかけてある私のコートは煙草臭さを残していた。
そのコートもまた、ファブリーズをたくさんかける。煙草は夫も息子も吸うけれど、匂いがどうしても好きになれない。時には吐き気も感じてしまうこともある。それでも、家に帰ってこないより煙草を吸っている方がまだ許せるわね。
「しばらくはこのままにしましょ」
11月の始め。少し寒さを感じ始める季節。でも、和室は基本的に使うことはないし、冷たい部屋になってもいいか。今日はまだ暖かい方だし。
「そうだわ、今日新聞取りに行ってなかったっけ」
和室の窓を開けた時に見えたポストの中に新聞が入っているのに気づき、外へ出る。洋風の筒型のポストを開けて、新聞や手紙などを取り出した。
「あら、同窓会?」
ショップのセール情報や町のフリーペーパーの中に紛れていたのは、高校からの同窓会の知らせがあった。
「懐かしいわね。由香里ちゃん達、元気かしら!」
同窓会の知らせを開けながら、高校時代へ想いを馳せた。私はクラスの中で目立っているわけでもなく、一人きりでもなく。友達も何人かいて、楽しい高校時代を送っていた。
部活はバレー部。顧問の先生は凄く厳しい人で、いつもしごかれていたっけ。というのも、私はバレー部ではあまり役に立たない存在だったから。いつも小さなミスばかりして、先生には目をつけられていた。それでも、部員達はみんな仲良くて、部活が終わってからもよく一緒にマックへ行って遅い時間まで色んな話をしていたわ
。
「そういえば・・・野田君。元気にしてるかしら」
バレー部に入ったきっかけは、恋心からだった。同じクラスには、野田克彦という人気のある男の子がいて、その子がスポーツの出来る女の子が好きだと話していた。そんな理由で、バレーくらいなら私にも出来るかなって思って入部したのだ。
ライバルが多くて、学年の女の子の半分は彼に注目していたと思う。彼は男子バレー部に所属していて、県大会ベスト8までチームを引っ張って行ったエース。
もちろん、バレンタインデーの日はチョコレートの山。誰かれにも優しい野田君は、一人ずつありがとうとお礼を言って、全て持ち帰って行った。そんな後ろ姿を見ると、胸が苦しくなったわ。
「野田君のこと、好きだったのよね、私」
昔のことを思い出していると、洗濯を終えた電子音が聞こえた。
「そうだ、洗濯機回してたんだっけ」
高校時代への想いを馳せる前に、家事をやらないとね。仕事のない主婦は暇でいいって羨ましがられるけど、毎日単調な作業をすること程、苦しいことはない。そこを分かっていないのよね、世の男の人達は。私が仕事したいって夫に言っても、夫は生活に余裕があるのだから、お前が外に出る必要はない。そう言っていて、外に出
させてくれないし。
「家事をずっとしているのも、疲れるのよ?」
家に帰らない夫に向かって愚痴を言う。夫の前では、はっきりと言えないからこそ、陰でこっそりと。毎日、ストレスが多くて大変。それでも、この同窓会の知らせは私に光をさしてくれた。みんなが、どんなおばさん・おじさんになっているのか気になって、つい想像して笑ってしまう。
私もたまには外に出てもいいわよね。毎日家にいてばかりではつまらないもの。たまにはお洒落して、素敵な洋服を着て。友達と昔話に花を咲かせたいわ!
同窓会当日。夫に相談すると、あっさりとOKしてくれた。珍しく物分かりがいいと思ったけれど、もしかしたらお気に入りのキャバクラの女の子とデートかもしれないわね。だからこそ、私が外に出ることを許したんだわ。
まぁ、そのおかげで私も外に出ることが出来たんだけど。彼女にはお礼を言わないとね。
「栄子、久し振り!やだ、まだ若いのね!羨ましい!」
同窓会会場であるマリンホテルに着いて名前を記入していると、その名前で私が誰か分かったのか。受付の太ったおばさんが声をかけてきた。
「あたしよ、後藤恵子よ!分からないのも無理ないわよね、結婚してから40キロも太っちゃったんだもの!」
「やだ・・・あなた恵子ちゃん?どうしたのよ、あんなに細かったのに!」
後藤恵子。高校時代、同じバレー部でエースとして活躍していた。短髪に小鹿のように細い手足。その姿は、まさに美少年と言えた。彼女を慕う後輩も多かったのだが、昔の見る影もない。まさか、ここまで太ってしまうとは思わなかった。彼女の姿を見たら、憧れていた女の子達はショックを受けるわね。男の子ってより、女の子
に人気があったもの。これこそ、百年の恋も冷めてしまう笑い話になるわ。
それに彼女の身なりを見れば分かる。随分と豪華な暮らしをしているのか、ほとんどの指に高そうなダイヤの埋められた指輪がされており、着ているコートもきっとブランド物なのだろう。ヒョウ柄と趣味は悪いが、高そうな匂いを漂わせている。
「そうそう、田中君も来てるのよ!あなた、田中君に告白されてたじゃない!今の彼見たら、ときめいちゃうわよ!ほんと、変わったもの!」
彼女はうるさすぎる程大きな声で、一人の男の子の名前を口にした。田中君って、誰だっけ?私の思い出の中には、野田君しかいなかったから、彼の顔を思い出すことも出来なかった。
過去の記憶をたどりながら、会場に入る。立食パーティーらしく、縦に長く白のクロスをかけたテーブルが横にずらっと並んでいた。テーブルの上には、おいしそうなお刺身やお肉。いつもの食事よりワンランク上のメニューには、心も弾んだ。
「おいしそうだわ、まずはお酒ね!」
久し振りにお酒を飲めることにわくわくしながら、お酒の並んだテーブルの方へと向かった。
「何を飲みます?」
「そうね、赤ワイン頂こうかしら」
お酒の置いてあるテーブルには、スーツを着て凛々しい顔立ちをした男の人が立っていた。細めの目もと、細く小さめの唇。髪の毛はサラサラしていて、皺が少なくて30代に見える。もしかしたら、ここのホテルのバーテンダーさんかもしれない。とても好印象。そんなことを考えていると、赤ワインの入ったグラスを渡してくれ
た。渡された時に、指先が少し触れて、少しドキドキしてしまった。
「金沢さん、だよね?相変わらず、可愛いね」
「え?」
赤ワインを渡し終えて、自分のお酒を口に含んだ後。男の人は私の目を真っ直ぐと見つめて、優しく微笑んで見せた。正直、こんなにカッコイイ雰囲気を持った人と仲良くなった記憶はなかった。
「僕、田中です。田中清吾です。覚えてないかな、高校時代に何回か告白して、一緒に帰ってもらったこともあるんだけど・・・」
彼は少し寂しそうな笑みを浮かべながら、昔の話を持ち出した。そんなこと、あったかしら。こんなにもカッコイイ人なら、覚えていてもおかしくないのに。
「僕、痩せたんですよ。会社に入ってから、仕事が忙しくなって。ほら、ブタって呼ばれていた田中です」
「あ、田中君!」
ブタ。そのあだ名で思い出した。そういえば、クラスでそう呼ばれていて、いつもからかわれていた男の子が頭に浮かんだ。お相撲さんみたいに太っていて、胸は女の子の胸よりも柔らかいという噂まで流れていた。
「田中君、痩せたんだね。凄いビックリしちゃった。今はどうしてるの?結婚してるの?」
ようやく思い出せたことに安心して、笑いながら問いかけた。田中君も、クスクスと笑って口を開く。
「いえ、まだ独身なんです。今、会社をたちあげていて、恋愛している暇がないんですよ。今日も同窓会終わったら、すぐに会社に向かわなきゃいけないんです」
「そうなの。ほんと、変わったわね!一緒にお酒飲みましょうよ!」
今日の同窓会は、本当に驚かされることが多かった。恵子ちゃんはまんまると太って、田中君はすっきりと痩せてしまって。人気のあった野田君は、スマートだけど顔はすっかりおじさんになってしまっていて。カッコ良くなっていたらいいなと想像したけれど、すぐに夢壊れた。
それでも、変わらない顔ぶれもあってワイン片手に久々に楽しい一日だった。
「大丈夫、金沢さん。お酒、飲みすぎたんじゃない」
「・・・えぇ、大丈夫よ。久し振りのお酒で、張り切っちゃったみたい」
マリンホテルでの同窓会は夕方5時過ぎで終わった。まだ夕方だと言うのに、こんなにも酔っぱらったのは久し振りで楽しくて。ワインのおかげで、周囲はぐらぐらと揺れ始めていた。
それでも、しっかりと地に足を付けて、歩いていると思ったのだけど。周囲からすると、ふらふらしているようにみえて危険だと思ったのか。田中君が私の肩に手をそえて、歩くのをフォローしてくれた。
「ありがとう、田中君。優しいのね」
男の人に肩を触られるなんて、何年ぶりかしら。夫との夜の生活もめっきりだったから、それだけで胸はときめいた。
「僕の会社、すぐ近くだから。会社で休ませてあげる」
「やだ、いいのよ!少し歩いて、酔いを醒ますから・・・きゃっ!」
田中君は心配の言葉をくれたけど、迷惑をかけたくないし、これ以上醜態を明かしたくないから、歩いて帰ると言った。でも、自分が思っていた上に酔っぱらっていたため、両足を絡ませて自分の足につまずいて、転んでしまった。
「金沢さん、遠慮はいいから。ほら、おんぶしてあげるから」
転んで、道端に座り込んでしまった私を笑いながら、田中君もしゃがみこんで背中を差し出してくれた。頭はきちんと働くことなく、つい彼の背中に甘えてしまった。いいのかな、と思いつつ、お酒のせいにしてしまえと思いきって彼の背中に体を預けた。
凄く広い背中。つい夫の背中と比べてしまった。夫の身長は165cm程度。まだ恋人同士だった頃、私をおんぶした時に重いと言ってすぐに下ろしていたっけ。私の身長は170cm。田中君は、180cm以上あるのかしら。久し振りに大きな背中に、頼りになるなと思ってしまう。
おんぶ、なんてきっと高校生以来ね。女の子同士では、よくお互いにおんぶして、誰の体重が軽いか比べ合ってたっけ。そんなことで遊んでいたのが、昨日の事のように思い出して、つい吹き出してしまった。
「どうしたの、金沢さん」
私の思い出し笑いに気づいた田中君は、不可思議そうな声をだしたけど、何でもないと答えた。
「お母さん、俺の体操着は?」
「母さん、俺の携帯は?」
毎朝忙しい。17歳、高校二年生の娘と15歳、中学三年生の息子と、20歳、大学二年生の息子。
三兄弟に恵まれたことは嬉しいけれど、毎朝騒々しくてノイローゼになりかけることもしばしば。
夫は某テレビ局のプロデューサーを務めているため、仕事場で夜を明かすこともあって、あまり家には帰って来ない。仕事で忙しいふりをして、キャバクラやら風俗やらに行っていることは知ってるけど、家計に影響する程遊んでいるわけではないから、気にしない。
私、金沢栄子45歳。もうすぐ46歳になるけど、相変わらず単調な日々を送っている。
別にそれを嫌だと思うことはないし、子供たちは反抗期があっても、私とは会話してくれる。
平和であり、つまらない日々。それでも、何事も起きないことが幸せだったりするのかしら。
朝9時過ぎ。子供たちが学校へ着く頃には、洗濯機を回して、リビングに掃除機をかける時間。
毎日綺麗にしているのに、子供たちのお菓子の食べカスがあちこちに散らばっていると、ムッとしてしまう。
「全く、床の上ではお菓子食べないでって言ってるのに」
何度言っても聞かないから呆れてしまう。テレビをつけると、まだニュースの時間帯。掃除機の音でテレビの声は聞こえないけど、繰り返し同じニュースを放送しているから、聞く必要もないかしら。
「さてっと、リビングの次は和室ね」
リビングでの掃除を終えて、次に和室へ向かった。すると、息子の吸っている煙草の匂いが充満していた。
「あれほど、この部屋では吸わないでって言ったのに!」
私は怒る毎日だ。和室の窓を開けて、空気を入れ替え、ファブリーズを部屋中にかける。すぐにミントの香りが漂い始めたが、和室にかけてある私のコートは煙草臭さを残していた。
そのコートもまた、ファブリーズをたくさんかける。煙草は夫も息子も吸うけれど、匂いがどうしても好きになれない。時には吐き気も感じてしまうこともある。それでも、家に帰ってこないより煙草を吸っている方がまだ許せるわね。
「しばらくはこのままにしましょ」
11月の始め。少し寒さを感じ始める季節。でも、和室は基本的に使うことはないし、冷たい部屋になってもいいか。今日はまだ暖かい方だし。
「そうだわ、今日新聞取りに行ってなかったっけ」
和室の窓を開けた時に見えたポストの中に新聞が入っているのに気づき、外へ出る。洋風の筒型のポストを開けて、新聞や手紙などを取り出した。
「あら、同窓会?」
ショップのセール情報や町のフリーペーパーの中に紛れていたのは、高校からの同窓会の知らせがあった。
「懐かしいわね。由香里ちゃん達、元気かしら!」
同窓会の知らせを開けながら、高校時代へ想いを馳せた。私はクラスの中で目立っているわけでもなく、一人きりでもなく。友達も何人かいて、楽しい高校時代を送っていた。
部活はバレー部。顧問の先生は凄く厳しい人で、いつもしごかれていたっけ。というのも、私はバレー部ではあまり役に立たない存在だったから。いつも小さなミスばかりして、先生には目をつけられていた。それでも、部員達はみんな仲良くて、部活が終わってからもよく一緒にマックへ行って遅い時間まで色んな話をしていたわ
。
「そういえば・・・野田君。元気にしてるかしら」
バレー部に入ったきっかけは、恋心からだった。同じクラスには、野田克彦という人気のある男の子がいて、その子がスポーツの出来る女の子が好きだと話していた。そんな理由で、バレーくらいなら私にも出来るかなって思って入部したのだ。
ライバルが多くて、学年の女の子の半分は彼に注目していたと思う。彼は男子バレー部に所属していて、県大会ベスト8までチームを引っ張って行ったエース。
もちろん、バレンタインデーの日はチョコレートの山。誰かれにも優しい野田君は、一人ずつありがとうとお礼を言って、全て持ち帰って行った。そんな後ろ姿を見ると、胸が苦しくなったわ。
「野田君のこと、好きだったのよね、私」
昔のことを思い出していると、洗濯を終えた電子音が聞こえた。
「そうだ、洗濯機回してたんだっけ」
高校時代への想いを馳せる前に、家事をやらないとね。仕事のない主婦は暇でいいって羨ましがられるけど、毎日単調な作業をすること程、苦しいことはない。そこを分かっていないのよね、世の男の人達は。私が仕事したいって夫に言っても、夫は生活に余裕があるのだから、お前が外に出る必要はない。そう言っていて、外に出
させてくれないし。
「家事をずっとしているのも、疲れるのよ?」
家に帰らない夫に向かって愚痴を言う。夫の前では、はっきりと言えないからこそ、陰でこっそりと。毎日、ストレスが多くて大変。それでも、この同窓会の知らせは私に光をさしてくれた。みんなが、どんなおばさん・おじさんになっているのか気になって、つい想像して笑ってしまう。
私もたまには外に出てもいいわよね。毎日家にいてばかりではつまらないもの。たまにはお洒落して、素敵な洋服を着て。友達と昔話に花を咲かせたいわ!
同窓会当日。夫に相談すると、あっさりとOKしてくれた。珍しく物分かりがいいと思ったけれど、もしかしたらお気に入りのキャバクラの女の子とデートかもしれないわね。だからこそ、私が外に出ることを許したんだわ。
まぁ、そのおかげで私も外に出ることが出来たんだけど。彼女にはお礼を言わないとね。
「栄子、久し振り!やだ、まだ若いのね!羨ましい!」
同窓会会場であるマリンホテルに着いて名前を記入していると、その名前で私が誰か分かったのか。受付の太ったおばさんが声をかけてきた。
「あたしよ、後藤恵子よ!分からないのも無理ないわよね、結婚してから40キロも太っちゃったんだもの!」
「やだ・・・あなた恵子ちゃん?どうしたのよ、あんなに細かったのに!」
後藤恵子。高校時代、同じバレー部でエースとして活躍していた。短髪に小鹿のように細い手足。その姿は、まさに美少年と言えた。彼女を慕う後輩も多かったのだが、昔の見る影もない。まさか、ここまで太ってしまうとは思わなかった。彼女の姿を見たら、憧れていた女の子達はショックを受けるわね。男の子ってより、女の子
に人気があったもの。これこそ、百年の恋も冷めてしまう笑い話になるわ。
それに彼女の身なりを見れば分かる。随分と豪華な暮らしをしているのか、ほとんどの指に高そうなダイヤの埋められた指輪がされており、着ているコートもきっとブランド物なのだろう。ヒョウ柄と趣味は悪いが、高そうな匂いを漂わせている。
「そうそう、田中君も来てるのよ!あなた、田中君に告白されてたじゃない!今の彼見たら、ときめいちゃうわよ!ほんと、変わったもの!」
彼女はうるさすぎる程大きな声で、一人の男の子の名前を口にした。田中君って、誰だっけ?私の思い出の中には、野田君しかいなかったから、彼の顔を思い出すことも出来なかった。
過去の記憶をたどりながら、会場に入る。立食パーティーらしく、縦に長く白のクロスをかけたテーブルが横にずらっと並んでいた。テーブルの上には、おいしそうなお刺身やお肉。いつもの食事よりワンランク上のメニューには、心も弾んだ。
「おいしそうだわ、まずはお酒ね!」
久し振りにお酒を飲めることにわくわくしながら、お酒の並んだテーブルの方へと向かった。
「何を飲みます?」
「そうね、赤ワイン頂こうかしら」
お酒の置いてあるテーブルには、スーツを着て凛々しい顔立ちをした男の人が立っていた。細めの目もと、細く小さめの唇。髪の毛はサラサラしていて、皺が少なくて30代に見える。もしかしたら、ここのホテルのバーテンダーさんかもしれない。とても好印象。そんなことを考えていると、赤ワインの入ったグラスを渡してくれ
た。渡された時に、指先が少し触れて、少しドキドキしてしまった。
「金沢さん、だよね?相変わらず、可愛いね」
「え?」
赤ワインを渡し終えて、自分のお酒を口に含んだ後。男の人は私の目を真っ直ぐと見つめて、優しく微笑んで見せた。正直、こんなにカッコイイ雰囲気を持った人と仲良くなった記憶はなかった。
「僕、田中です。田中清吾です。覚えてないかな、高校時代に何回か告白して、一緒に帰ってもらったこともあるんだけど・・・」
彼は少し寂しそうな笑みを浮かべながら、昔の話を持ち出した。そんなこと、あったかしら。こんなにもカッコイイ人なら、覚えていてもおかしくないのに。
「僕、痩せたんですよ。会社に入ってから、仕事が忙しくなって。ほら、ブタって呼ばれていた田中です」
「あ、田中君!」
ブタ。そのあだ名で思い出した。そういえば、クラスでそう呼ばれていて、いつもからかわれていた男の子が頭に浮かんだ。お相撲さんみたいに太っていて、胸は女の子の胸よりも柔らかいという噂まで流れていた。
「田中君、痩せたんだね。凄いビックリしちゃった。今はどうしてるの?結婚してるの?」
ようやく思い出せたことに安心して、笑いながら問いかけた。田中君も、クスクスと笑って口を開く。
「いえ、まだ独身なんです。今、会社をたちあげていて、恋愛している暇がないんですよ。今日も同窓会終わったら、すぐに会社に向かわなきゃいけないんです」
「そうなの。ほんと、変わったわね!一緒にお酒飲みましょうよ!」
今日の同窓会は、本当に驚かされることが多かった。恵子ちゃんはまんまると太って、田中君はすっきりと痩せてしまって。人気のあった野田君は、スマートだけど顔はすっかりおじさんになってしまっていて。カッコ良くなっていたらいいなと想像したけれど、すぐに夢壊れた。
それでも、変わらない顔ぶれもあってワイン片手に久々に楽しい一日だった。
「大丈夫、金沢さん。お酒、飲みすぎたんじゃない」
「・・・えぇ、大丈夫よ。久し振りのお酒で、張り切っちゃったみたい」
マリンホテルでの同窓会は夕方5時過ぎで終わった。まだ夕方だと言うのに、こんなにも酔っぱらったのは久し振りで楽しくて。ワインのおかげで、周囲はぐらぐらと揺れ始めていた。
それでも、しっかりと地に足を付けて、歩いていると思ったのだけど。周囲からすると、ふらふらしているようにみえて危険だと思ったのか。田中君が私の肩に手をそえて、歩くのをフォローしてくれた。
「ありがとう、田中君。優しいのね」
男の人に肩を触られるなんて、何年ぶりかしら。夫との夜の生活もめっきりだったから、それだけで胸はときめいた。
「僕の会社、すぐ近くだから。会社で休ませてあげる」
「やだ、いいのよ!少し歩いて、酔いを醒ますから・・・きゃっ!」
田中君は心配の言葉をくれたけど、迷惑をかけたくないし、これ以上醜態を明かしたくないから、歩いて帰ると言った。でも、自分が思っていた上に酔っぱらっていたため、両足を絡ませて自分の足につまずいて、転んでしまった。
「金沢さん、遠慮はいいから。ほら、おんぶしてあげるから」
転んで、道端に座り込んでしまった私を笑いながら、田中君もしゃがみこんで背中を差し出してくれた。頭はきちんと働くことなく、つい彼の背中に甘えてしまった。いいのかな、と思いつつ、お酒のせいにしてしまえと思いきって彼の背中に体を預けた。
凄く広い背中。つい夫の背中と比べてしまった。夫の身長は165cm程度。まだ恋人同士だった頃、私をおんぶした時に重いと言ってすぐに下ろしていたっけ。私の身長は170cm。田中君は、180cm以上あるのかしら。久し振りに大きな背中に、頼りになるなと思ってしまう。
おんぶ、なんてきっと高校生以来ね。女の子同士では、よくお互いにおんぶして、誰の体重が軽いか比べ合ってたっけ。そんなことで遊んでいたのが、昨日の事のように思い出して、つい吹き出してしまった。
「どうしたの、金沢さん」
私の思い出し笑いに気づいた田中君は、不可思議そうな声をだしたけど、何でもないと答えた。
純恋小説 重いくらい好きなだけ
手を繋ぐ。
指が絡み合う。指に伝わる彼の温度は少し生ぬるい。
そのぬるさを超える程、手は熱を持っている。
それが恥ずかしくて、思わず彼の手を離した。
「雫?」
彼は驚いた顔をして、私を見る。驚くのは当然だ。嫌がるように、無理やり手を離したのだから。
彼は私の表情を見ようと、かがみこんで、目線を同じ高さにする。
「ごめん、手繋ぐの嫌だった?」
悪いことをした、というような悲しそうな表情をしている。
それと同時に私の瞳の中から、本当に嫌がっているのかを確認しようとしている強い光も見えた。
「いやじゃ…ない」
嫌じゃないけど、私は彼の手を繋げない。その手に触れただけで、私の心臓は高鳴って、胸を引き裂いてまで外に出てくるのではないかと思った。
「もしかして、まだ俺のこと好きじゃない?」
彼は答えを求めるように、私の視線を捉える。その瞳の強さに捕まったら、もう逃げられない。
逃げたくない、逃げたら彼とはもう会えない。
彼とこうして、デートをすることも出来ない。
「雫、答えてよ」
求めるように、懇願するように。彼は私の瞳を見つめる。
好きだから、一緒にいたいと思うし、誰にも渡したくないと思う。
でも、心とは裏腹に、行動することが出来ない。
彼が好きすぎて、私の想いが重すぎて、彼に嫌われてしまうのではないかという不安に駆られてしまう。
「まだ、あいつのこと好きなの?」
何も言わず、押し黙ったままの私を見て、彼の口は昔の話を紡ぎ出す。
「でも、そうだよな。俺とは比べものにならないくらい、あいつは凄い奴だったもんな。雫が忘れられないのは分かるよ」
「ちがっ!違うの!」
彼の瞳から強い光が消えて、暗い雲がたちこめているように見えた。
そんな瞳をして欲しくない。彼にはいつも、まっすぐな強さを持って欲しい。そう思うのに、私が彼を悲しくさせている。
この現実が悲しくて、変えたいと思うのに、変えることが出来ない臆病者な私。
「無理しなくていいよ。やっぱり、雫を笑顔に出来るのはあいつだけなんだし…」
彼の表情は悲しくなって、私から視線をそむけ、背中を向けた。
「今日は、帰ろう」
小さく、聞こえるか聞こえないかの大きさで、呟いた彼。
私の瞳は濡れ始めた。
違う、こんな話をするために、彼とデートしたんじゃない。
彼のことが好きだから、今日のために洋服を選んで、何度も友達にこの服でいいかと聞いて、服装チェックをお願いしたのに。
彼に可愛いと思って欲しくて、何度も化粧をし直した。
男の人に媚びない、愛されメイクのコーナーを設けた雑誌を買いあさって研究したのに…
彼に可愛く思って欲しくて、いつもと違う私だと、思って欲しくて…
それなのに彼を悲しませているのが現状。
「俺こそ、悪いよな。まだ、あいつのこと忘れられないのに、デート誘うなんて」
彼は眉をはのじに曲げて、悲しそうに笑う。こんな顔をさせたいわけじゃない。
ただ、好きすぎて、熱を持ちすぎてしまうだけなのに…
私はこれ以上、口を開けないまま、彼の後をついていった。
今日は手を繋いで、恋人らしくしようと思ったのに…
何も出来ないまま、気まずさだけを残して、今日のデートは終わった。
指が絡み合う。指に伝わる彼の温度は少し生ぬるい。
そのぬるさを超える程、手は熱を持っている。
それが恥ずかしくて、思わず彼の手を離した。
「雫?」
彼は驚いた顔をして、私を見る。驚くのは当然だ。嫌がるように、無理やり手を離したのだから。
彼は私の表情を見ようと、かがみこんで、目線を同じ高さにする。
「ごめん、手繋ぐの嫌だった?」
悪いことをした、というような悲しそうな表情をしている。
それと同時に私の瞳の中から、本当に嫌がっているのかを確認しようとしている強い光も見えた。
「いやじゃ…ない」
嫌じゃないけど、私は彼の手を繋げない。その手に触れただけで、私の心臓は高鳴って、胸を引き裂いてまで外に出てくるのではないかと思った。
「もしかして、まだ俺のこと好きじゃない?」
彼は答えを求めるように、私の視線を捉える。その瞳の強さに捕まったら、もう逃げられない。
逃げたくない、逃げたら彼とはもう会えない。
彼とこうして、デートをすることも出来ない。
「雫、答えてよ」
求めるように、懇願するように。彼は私の瞳を見つめる。
好きだから、一緒にいたいと思うし、誰にも渡したくないと思う。
でも、心とは裏腹に、行動することが出来ない。
彼が好きすぎて、私の想いが重すぎて、彼に嫌われてしまうのではないかという不安に駆られてしまう。
「まだ、あいつのこと好きなの?」
何も言わず、押し黙ったままの私を見て、彼の口は昔の話を紡ぎ出す。
「でも、そうだよな。俺とは比べものにならないくらい、あいつは凄い奴だったもんな。雫が忘れられないのは分かるよ」
「ちがっ!違うの!」
彼の瞳から強い光が消えて、暗い雲がたちこめているように見えた。
そんな瞳をして欲しくない。彼にはいつも、まっすぐな強さを持って欲しい。そう思うのに、私が彼を悲しくさせている。
この現実が悲しくて、変えたいと思うのに、変えることが出来ない臆病者な私。
「無理しなくていいよ。やっぱり、雫を笑顔に出来るのはあいつだけなんだし…」
彼の表情は悲しくなって、私から視線をそむけ、背中を向けた。
「今日は、帰ろう」
小さく、聞こえるか聞こえないかの大きさで、呟いた彼。
私の瞳は濡れ始めた。
違う、こんな話をするために、彼とデートしたんじゃない。
彼のことが好きだから、今日のために洋服を選んで、何度も友達にこの服でいいかと聞いて、服装チェックをお願いしたのに。
彼に可愛いと思って欲しくて、何度も化粧をし直した。
男の人に媚びない、愛されメイクのコーナーを設けた雑誌を買いあさって研究したのに…
彼に可愛く思って欲しくて、いつもと違う私だと、思って欲しくて…
それなのに彼を悲しませているのが現状。
「俺こそ、悪いよな。まだ、あいつのこと忘れられないのに、デート誘うなんて」
彼は眉をはのじに曲げて、悲しそうに笑う。こんな顔をさせたいわけじゃない。
ただ、好きすぎて、熱を持ちすぎてしまうだけなのに…
私はこれ以上、口を開けないまま、彼の後をついていった。
今日は手を繋いで、恋人らしくしようと思ったのに…
何も出来ないまま、気まずさだけを残して、今日のデートは終わった。