昨日「3人寄れば文殊の知恵を出せるが、たくさん集まると烏合の衆となる」という記事を書いたのですが、今日はそれに関連して、人を文殊と烏合分けるモノは何かを書いていこうと思います。

 

 その記事内でも既に書いた通り、分けるモノは責任という事になります。しかし、烏合となる人でもそれなりに責任を担っている人は少なくないでしょう。

 

 それでも烏合と化してしまうのは何故なのでしょう?

 

 それはきっと、本当の意味での責任ではないからだと思います。要は偽物という事です。恐らく、大抵はそれが大人の責任だと先生に教わっているという事になるでしょう。

 

 子どもを養うのが責任だとか、社会を守るのが責任だとか、会社を守るのが責任だとか・・・大抵はそういう事だと思います。

 

 でも、それらは全部嘘なのです。例えば、親が無くても子は育つという言葉があるように、あれば有難いけど必須ではない。社会や会社という大きな組織は自分が守るというより守られる存在となることでしょう。

 

 では、本当の意味で我々が負うべき責任は何なのか?

 

 それは、未来を守る責任ではないかと思います。つまり、今あるモノではなく今はないモノを守る責任という事です。でも、今はないモノをどうやって守るのか?今はないのにそれに対して責任なんか存在しないだろう・・・

 

 と思われるかもしれません。未来とは何かが分かれば少しは見方が変わるかもしれません。今はない未来にあるのは夢と希望だけです。それは、自由と無限の世界だから、夢と希望が生まれるのでそうなります。

 

 しかし、大抵の人は今を守ろうとする。それが自分の責任だと信じているのです。守るべきモノが見えているから守りやすいというのもあると思います。

 

 しかし、今という現実は過去の産物であり、言い換えれば過去を守る、過去を踏襲することになるのです。もちろん、今現在が人類としての理想の世界であればやむを得ないことですが。

 

 むしろ、人間世界は日に日に悪化の一途を辿り、現実的には全く現状維持さえままならないのではないかと思います。

 

 それは、現在が過去の産物である以上、その責任を追えるのが過去の人だからそうなるのです。時間軸を考慮すれば理解できるのではないでしょうか。

 

 これを言うと意味不明という人も居るので、分からない人も多いのかもしれませんが。

 

 要は製造物責任のようなもので、全ては作った者に責任があるという事です。だから、責任を負いたくない人は何も作らない。既に出来たモノを守ろうとする保守化することになります。

 

 そして、それを責任だと信じて疑わない。それは責任から逃げているだけなのです。もし、それを自覚しているなら非常に卑怯な行動だと思います。

 

 ということで、そういう人たちは責任感が無いので烏合の衆となると思います。そういう人たちほど直ぐ徒党を組むことになるでしょう。そして、赤信号みんなで渡れば怖くないとなるのです。

 

 文殊になるのは今は見えない未来への責任を感じれる人たちになろうかと思います。そこには当然我が子に対する責任も入ってくることでしょう。

 

 しかし、それは我が子を守ることではなく、我が子に本当の責任を理解させることだと思います。そうして我が子が烏合にならないようにすること。

 

 これを伝えて行かないと人間は生き残れないからです。身に見えることに惑わされることなく、目に見えない未来を見つめて前を向いて生きていく。

 

 全ての人間にはその力が備わっているのだから・・・それを絶やすことなく繋げてさえいければ何があっても人間は前を向いて生きていけるのです。