日本の学校では、問題解決能力も批判的思考も養われていない(ニューズウィーク日本版)
>日本の学校では、問題解決能力も批判的思考も養われていない
と指摘するのは良いのですが、では、それはどういうことなのか?という事については相変わらず考えないわけです。更に、こういう問題については常に他国との比較で検証するのですが、果たして、諸外国にそういう能力が養われているかという事は気にしないのです。
他の先進国を具に見ていけば分かると思いますが、米国を筆頭に先進国は酷い有様であり、まだ日本の方がましではないでしょうか。結果である現在の状況をしっかり見ていかないとダメだと思います。
教育者というのはすべからく優れたもモノや優れた人を比較対象に持ち出すのですが、それは常に一面的であり、見方を変えれば全く違う結論になったりもするのです。
そして、日本は常に先進国と比較して作られて来たので、中身のない表面的で非常に歪な状態になっているのではないかと思います。そうやって、学校教育の実体を気づいたにも係らず、
>こうした工夫を凝らすには、授業を「練る」時間が必要になる。
その払拭に新たな授業を考えるところがズッコケるところです。そういう風に工夫を凝らせば凝らすほど、子どもたちの自分で考える能力が低下することにまだ気づかないのでしょうか?
>現行の学習指導要領では、先行き不透明な時代を生き抜けるように
>すべく、自ら考える力や問題解決する力の育成を重視している。
>注入主義から開発主義に重点が移ってきているのは、どの国でも同
>じだ。読・書・算の能力だけを持った工場労働者を大量育成すれば
>いい、という時代ではない。
今一度、この意味、この事の本質をしっかり考えるべきだと思います。自分で考えるとはどういうことなのか?人はどういう時に自分で考えようとするのか?
少なくても、それが分からなければ何をやっても意味がないのです。そういう言葉の一つ一つの意味をしっかり考え認識することからやり直すべきではないかと思います。
何度も書いていますが、優秀というのはどういう人か?きっと、それさえ知らない人ばかりではないでしょうか。優秀とは読んで字の如しで「優しさに秀でる」こと。要は他人の立場に立って物事を考えることが出来る人を言うのです。
勉強が出来る人、仕事が出来る人という意味ではない。しかし、そういう他人の立場に立って物事が考えられる人は、当然に、勉強も仕事も出来るのです。
しかし、現実では、勉強や仕事の出来る人は、自分さえ良ければ良いと考える冷酷な人ではないでしょうか。従って、そんな人を優秀と呼んではいけないのです。何故なら、字にそぐわないから。
そういう人が蔓延れば社会は荒廃し、人間は滅びるからです。要は、学校教育はそういう人をたくさん育ててしまったのです。その結果、こういう酷い社会が出来上がって多くの人が窮地に追いやられている。
こういう教育の問題点が分からない人たちがいる限り、教育は止めるしかないのです。何故なら、改革も改善も出来ないから。そうすれば、冷酷な人が減り優秀な人は増えて来ることでしょう。
今の社会に足りないのは優しさです。本来、地球上の生物で優しさを持っているのは唯一人間だけであり、この厳しい生存競争に負けなかったのは、その波外れた優しさがあったからなのです。
人間を人間として生かして来た優しさが人間社会から消えてしまえば、人間は減少し、最終的には滅びることになる。もうそれは、かなり進行していると言っても良いでしょう。
優秀な人間を育てられるのは学校ではなく家庭だけなのです。本当に愛する家族から育てられるから優秀な人間が育ってくる。そして、その為に我々は変わらなければいけないのです。
お金で子育てするのではなく、愛情で子育てすることを。子を責任を負って育てられるのは親なのだけですから・・・