前回、”「愛してる」と言って亡くなった小林麻央さんの最期を作り話だという医師たち”という記事を拝読して、私が感じたことを述べました

 

終末期医療の現場にいて、他に感じていることについても今回はお伝えしたいと思います。

 

それは「安楽死」という言葉が指し示すものについてです。

 

 

「安楽死」という言葉の世界標準

 

橋田壽賀子さんが積極的に発信をされるなど、最近「安楽死」という言葉を聞く機会もそれなりにあります。

 

何かしらそのようなニュースがポータルサイトで報じられると、コメント欄も「安楽死」という言葉が並びます。

 

ただ、日本で言われる「安楽死」には、実際様々な要素が含まれていると感じます。

 

“自分の死に時を自分で決めたい”という思いが、口をついて出た時に“安楽死”という言葉にはなるものの、そこにおける手段に関しては(想定されているものが)個々人ごとに随分と違いがあるようです。

 

世界的には、「安楽死」という言葉が指し示すものは、ある程度定まっています。

 

 

 

安楽死と、他の死を分ける「意図」と「手段」

 

厳密にいうと、安楽死とはオランダやベルギーなどで行われている、医師が致死的となる薬剤を直接「投与」して、患者を死に導くことです。

 

カナダでは2016年、安楽死が合法化になりました。

 

始まってからの統計なども公表されています(リンク、英語)。

 

また、医師から処方された薬剤を「患者自身」が服用するのが、医師ほう助による自死です。

 

これら2つは区別されており、医師から処方された薬剤を患者自身が服用する方法(医師ほう助による自死)のみを認めている国や地域があります。

 

 

これらは、「命を終わらせること」を意図して、行為がなされる群です。

 

 

一方で、治療行為自体が苦痛を増やしてしまう際に、治療を「差し控え」たり「中止」したりする行為があります。

 

これらは当然のごとく、死をもって苦痛から解放する、ということが第一の意図ではありません

 

それゆえに、これらの行為は安楽死と呼ばないのが世界的には標準です。

 

 

 

日本独自の用語も複雑化に影響している

 

また日本における尊厳死という言葉は、広範な意味で用いられています。

 

ただ、カナダの安楽死に関しては一般に「assisted suicide or death with dignity」と呼ばれたり、アメリカ・オレゴン州の医師ほう助による自死を認める法は「Death with Dignity Act」と呼ばれる等、世界的には尊厳(dignity)ある死というと、安楽死など、死をもって苦痛を終わらせる、死を意図した行為を指し示す場合があります。

 

日本尊厳死協会のホームページを見ると、尊厳死とは「不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のことです。本人意思は健全な判断のもとでなされることが大切で、尊厳死は自己決定により受け入れた自然死と同じ意味と考えています」とあり、これは治療の差し控え・中止群に近い記載です。

 

というわけで、日本の尊厳死≠世界での尊厳死です。

 

もちろん日本は日本、世界は世界、という考えもあるでしょうし、尊厳死協会は長い歴史がありますが、いずれにせよ「尊厳死」という言葉を使った際に、安楽死と同じく、話者や聴く人によって考える範囲が異なるということが十分あり得るのです。

 

 

 

正しい言葉が普及し話し合われることが第一歩

 

私が現場に出たころは、まだこれらの言葉がしばしば一緒くたに使われている時代でした。

 

ただ世界的には、安楽死に関しては、「死をもたらす直接的な手段を行う、提供する」ことである以上、苦痛緩和の処置まで「安楽死」と呼ぶのは、時代にそぐわなくなって来ています。

 

例えば苦痛緩和のための鎮静は、あくまでうとうとと眠って苦痛を緩和することを「目的」としています。

 

安楽死は目的が異なり、患者の死を意図しています。

 

治療の差し控えや中止も、患者の苦痛軽減を目的としており、死ぬことを第一に意図しているわけではありません。

 

ただメディアで語られているのを見ると、どうもそれらがしばしば混同して用いられてしまっているようです。

 

患者を直接的に死に至らしめる安楽死と、患者の苦痛緩和を企図して処置を行う治療の差し控えや中止、あるいは鎮静等は、手段にも考え方にも隔たりがあると思うのですが、どうでしょうか。

 

 

 

日本の現状は?

 

なお現状日本には、安楽死、医師ほう助の自死、治療の差し控え・中止を定める法律はいずれもありません。

 

しかし、少なくとも私の知る限り、私の見ている範囲においては、がんの終末期の患者さんにおいては以前よりも、ご本人やご家族の意思を確認し、適正な「治療の差し控え・中止」がだいぶ行われるようになってきたと感じます。

 

様々な考え方があろうと存じますが、あくまで私の実感としては、がんの終末期の患者さんにおいては、法的な定めがなくとも、適正な変化がもたらされていると思います。

 

ただもちろん病気はがんに限りません。

 

一般に、意思表示が難しくなる認知症などの終末期の場合は、より判断が難しいでしょう。

 

「治療の差し控え・中止」については法的な定めがあったほうが良いのではないかという意見もあり、私としては動向を注視したいと思っています。

 

いずれにせよ、世界の多くの国と同じく、日本では安楽死などの、「死をもたらす直接的な手段を行う、提供する」ことは認められていません。

 

これに対しては、皆さんそれぞれの立場や思いがあることでしょう。

 

ただ直接的に死を望まなくても、苦痛に関しては(特にがんの場合においては)、継続的に緩和できるような体制が徐々に整備されて来ています。

 

その点では、安楽死がないといけない、恐ろしい、残酷だ、というまでも言えないのではないかと思います。

 

 

「いっそ死んでもいい」「でも長く生きたい」、極めて重い病気の方はこれらの気持ちが併存することが通常です。

 

現場で見ていても、安楽死を望まれる方というのは必ずしも多くないです。

 

安楽死が認められている国でも、オランダは全死亡の3.75%、ベルギーは1.83%、カナダは0.6%です(参照、英語)。

 

もちろん少数だからといって、軽んじてはいけませんが。

 

 

皆さんは、もし重い病気で回復不能な状態となったらどこまでを望みますか?

 

自分は、少なくともがんならば、最後は鎮静があるので(してもらえるので)、治療の差し控えや中止が問題なく行われるならばそれで良いと考えます(医師によって直接薬剤を投与してもらって死ぬ<安楽死>までは希望しない)。もちろん病気や状態に応じてケースバイケースでしょうが。

 

いずれにせよ、言葉を確定し、どの程度かと議論できるようになれば良いと思います。

 

さらなる議論の深まりに期待したいところです。