曹操は言う 「では、冥途のみやげに、黄蓋の書簡をもって、予が詐術なりと観破した理由をいって聞かせてやろう。しかと耳の垢を払って聞くがいい――書中、黄蓋がいっているように、我への降参が、本心からのものならば、必ず味方に来る時の日限を明約していなければならん。然るに書中にはその日時には何も触れておらぬ。これ、本心にない虚構の言たる証拠であろう」
「これは、異な説を聞くものだ。みだりに兵書を読めばとて、書に読まれて、書の活用を知らぬものは、むしろ無学より始末がわるい。そんな凡眼で、この大軍をうごかし、呉の周瑜に当るときは、たちまち、敵の好餌――撃砕されるにきまっている」
「何、敗れるにきまっていると」
「然り、小学の兵書に慢じ、新しき兵理を究めず、わずか、一書簡の虚実も、一使の言の信不信も、これを観る眼すらない大将が、何で、呉の新鋭に勝てようか」
「…………」
ふと、曹操は唇をむすんで、何か考えこむような眼で、じっと、を見直していた。
闞沢は、自身の頸を叩いて、
「いざ、斬るなら、早く斬れ」と、迫った。
曹操は、顔を横に振って、
「いや、しばしその生命は預けておこう。この曹操がかならず敗戦するだろうということについて、もう少し論じてみたい。もし理に当るところがあれば、予も論じてみる」
「折角だが、あなたは賢人を遇する礼儀も知らない。何をいったところで無益であろう」
「では、前言をしばらく詫びる。まず高論を示されい」
「古言にもある。主ニ反イテ盗ミヲナス安ンゾ期スベケンヤ――と。黄蓋いま、深恨断腸、三代の呉をそむいて麾下に降らんとするにあたり――もし日限を約して急に支障を来し、来会の日をたがえたなら、丞相の心はたちまち疑心暗鬼にとらわれ、遂に、一心合体の成らぬのみか、黄蓋は拠るに陣なく、帰るに国なく、自滅の外なきに至ります。故にわざと日時を明示せず、好機を計って参らんというこそ、事の本心を証するもの、またよく兵の機謀にかなうもの、これをかえって疑いの種となす丞相の不明を、愍れまずにいられません」
「むむ、その言はいい」
曹操は、大きくうなずいた。
「まことに、一時の不明、先ほどからの無礼は許せ」
彼はにわかに、こう謝して、賓客の礼を与え、座に請じて、あらためて闞沢の使いをねぎらい、酒宴をもうけて、さらに意見を求めた。 ところへ、侍臣の一名が外から来て、そっと曹操の袂の下へ、何やら書状らしいものを渡して退がった。
「ははあ……。さては呉へまぎれ込んでいる蔡和、蔡仲から、何かさっそく密謀が来たな」
と感づいたが、闞沢は何げない態をつくろって、しきりと杯をあげ、かつ弁じていた。酒のあいだに曹操は、蔡和、蔡仲からの諜報を、ちらと卓の陰で読んでいたが、すぐに袂に秘めて、さり気なくいった。
「さてとやら。――今はご辺に対して予は一点の疑いも抱いておらん。この上は、ふたたび呉へかえって、予が承諾した旨を黄蓋へ伝え、充分、諜しあわせて、わが陣地へ来てくれい。抜かりはあるまいが、くれぐれも周瑜にさとられぬように」
すると、闞沢は、首を振って断った。
「いや、その使いには、ほかにしかるべき人物をやって下さい、てまえはこれに留まりましょう」
「なぜか」
「二度と、呉へ帰らんなどとは、期してもおりません」
「だが、ご辺ならば、往来の勝手も知る、もしほかの者をやったら、黄蓋も惑うだろう」
再三、曹操に乞われて、闞沢は初めて承知した。――なお曹操が自分の肚をさぐるためにそういったのではないかということを闞沢は警戒していたのである。
――が、今は曹操も、充分、彼の言を信じて来たもののようだった。闞沢は仕すましたりと思ったが、色にも見せず、他日再会を約して、再び帰る小舟に乗った。その折も曹操から莫大な金銀を贈られたが、
「大丈夫、黄金のために、こんな冒険はできませんよ」
と、手も触れず、一笑して、小舟を漕ぎ去った。
呉の陣所へもどると、彼はさっそく黄蓋と密談していた。黄蓋は事の成りそうな形勢に、いたく歓んだが、なお熟慮して、
「初めに疑っていた曹操が、後にどうして急に深く信じたのだろう?」と、糺した。
闞沢は、それに答えて、
「おそらく、てまえの弁舌だけでは、なお曹操を信じ切らせるには至らなかったでしょうが、折も折、蔡和、蔡仲の諜報が、そっと彼の手に渡されたのです。――てまえの言を信じない彼も腹心の者の密報には、すぐ信を抱いたものと見えます。しかもその密諜による呉軍内の情報と、てまえの語ったところとが、符節を合わせた如く一致していましたろうから、疑う余地もないとされたに違いありません」
「むむ……なるほど。ではご苦労だが足ついでに、甘寧の部隊へ行って、甘寧のもとにおる蔡和、蔡仲の様子をひとつ見ておいてくれんか」
闞沢は、心得て、甘寧の部隊を訪ねて行った。
唐突な訪れに、甘寧は、彼のすがたをじろじろ見て、
「なにしに見えたか」と、訊ねた。
闞沢が、いま本陣で、気にくわぬことがあったから、無聊をなぐさめに来たというと、甘寧は信じないような顔して、
「ふーム……?」と、薄ら笑いをもらした。
そこへ偶然、蔡和、蔡仲のふたりが入ってきた。甘寧が、闞沢へ眼くばせしたので、闞沢も甘寧のこころを覚った。 ――で、わざと不興げに、
「近ごろは、事ごとに、愉快な日は一日もない。周都督の才智は、われわれだって充分に尊敬しているが、それに驕って、人をみな塵か芥のように見るのは実によくない」
と、独り鬱憤をつぶやきだすと、甘寧もうまく相槌を打って、
「また何かあったのか、どうも軍の中枢で、そう毎日紛争があっちゃ困るな」
「ただ議論の争いならいいが、周都督ときては、口汚なく、衆人稠坐の中で、人を辱めるから怪しからん。……不愉快だ。実に、我慢がならぬ」
と、唇を噛んで憤りをもらしかけたが、ふと一方にたたずんでいる蔡和、蔡仲のふたりを、じろっと眼の隅から見て、急に口をつぐみ、
「……甘寧。ちょっと、顔をかしてくれないか」
と、彼の耳へささやき、わざと隣室へ伴って行った。
蔡和と蔡仲は、黙って、眼と眼を見合わせていた。 その後も、と甘寧は、たびたび人のない所で密会していた。
或る夕、囲いの中で、また二人がひそひそささやいていた。かねて注目していた蔡和と蔡仲は、陣幕の外に耳を寄せて、じっと、聞きすましていたが、さっと、夕風に陣幕の一端が払われたので、蔡和の半身がちらと、中の二人に見つけられたようだった。
「あっ、誰かいる」
「しまった」と、いう声が聞えた。
――と思うと、甘寧と闞沢は、大股に、しかも血相変えて、蔡和、蔡仲のそばへ寄ってきた。
「聞いたろう! われわれの密談を」
闞沢がつめ寄ると、甘寧はまた一方で、剣を地に投げて、
「われわれの大事は未然に破れた。すでに人の耳に立ち聞きされたからには、もう一刻もここには留まり難い」と、足ずりしながら慨嘆した。蔡和、蔡仲の兄弟は、何か、うなずき合っていたが、急にあたりを見廻して、
「ご両所、決して決して絶望なさる必要はありませぬ。何を隠そう、われわれ兄弟こそ実は、曹丞相の密命をうけ、詐って呉に降伏して来た者。――今こそ実を打ち明けるが、本心からの降人ではない」と、いった。
甘寧と闞沢は穴のあく程、兄弟の顔を見つめて、
「えっ、それは……真実なのか」
「何でかような大事を嘘いつわりにいえましょう」
「ああ! ……それを聞いて安堵いたした。貴公らの投降が、曹丞相の深遠な謀計の一役をもつものとは、夢にも知らなかった。思えばそれもこれも、ひとつの機運。魏いよいよ興り、呉ここに亡ぶ自然のめぐり合わせだろう」
もちろん、先頃から、甘寧と闞沢が、人なき所でたびたび密談していたことは――周都督に対する反感に堪忍の緒を切って――いかにしたら呉の陣を脱走できるか、どうしたら周都督に仕返しできるか、またいッそのこと、不平の徒を狩り集めて、暴動を起さんかなどという不穏な相談ばかりしていたのであった。わざと、蔡兄弟に、怪しませるようにである。
蔡和、蔡仲の兄弟は、それが巧妙な謀計とは、露ほども気づかなかった。自分たちがすでに謀計中の主役的使命をおび、この敵地の中に活躍しているがために、かえって相手の謀計に乗せられているとは思いもつかなかった。
裏をもって謀れば、またその裏をもって謀る。兵法の幻妙はこの極まりない変通のうちにある。神変妙通のはたらきも眼光もないものが、下手に術をほどこすと、かえって、敵に絶好な謀計の機会を提供してしまう結果となる。
その晩、四人は同座して、深更まで酒を酌んでいた。一方は一方を謀りおわせたと思いこんでいる。
が、共に打ち解け、胸襟をひらきあい、共に、これで曹丞相という名主のもとに大功を成すことができると歓びあって――。
「では、早速、丞相へ宛てて、一書を送っておこう」
と、蔡仲、蔡和は、その場で、このことを報告する文を認め、闞沢もまた、べつに書簡をととのえてひそかに部下の一名に持たせ、江北の魏軍へひそかに送り届けた。闞沢の書簡には、 ――わが党の士、甘寧もまた夙に丞相をしたい、周都督にふくむの意あり、黄蓋を謀主とし、近く兵糧軍需の資を、船に移して、江を渡って貴軍に投ぜんとす。――不日、青龍の牙旗をひるがえした船を見たまわば、即ち、われら降参の船なりとご覧ぜられ、水寨の弩を乱射するを止めたまわんことを。
と、いう内容が秘められてあった。
しかし、やがてそれを受取った日、さすがに曹操は、鵜呑みにそれを信じなかった。むしろ疑惑の眼をもって、一字一句をくり返しくり返しながめていた。(235話)
―次週へ続く―