ここ四、五日というもの黄蓋は陣中の臥床に横たわったまま粥をすすって、日夜呻いていた。
「まったくお気の毒な目にあわれたものだ」
と、入れ代り立ちかわり諸将は彼の枕頭を見舞いに来た。
或る者は共に悲しみ或る者は共に傷み、また或る者は秘かに周瑜の無情に対して共に恨みをもらした。
日ごろ親しい参謀官の闞沢も見舞いに来たが、彼のすがたを見ると、暗涙をたたえた。黄蓋は、枕頭の人々を退けて、
「よく来てくれた。誰が来てくれたよりうれしい」と、無理に身を起して云った。
闞沢は、傷ましげに
「将軍はかつて、何か、周都督から怨まれていることでもあったのか」と、訊ねた。
黄蓋は顔を振って、
「何もない……。旧怨などは何もない」
「それにしては、余りに今度のことは理に合わないご折檻ではありませんか。傍目にも疑われるほど……実に苛烈すぎる」
「いや、ご辺のほかには、真実を語るものはない。それ故に、見えられるのを心待ちにしていたのだ」
「将軍。察するところ、過日、衆人の中であの責苦をうけられたのは、何か苦肉の計ではないのですか」
「しッ。……静かにされよ。……して、それをば、如何にして察しられたか」
「周都督の形相といい、あの苛烈きわまる責め方といい、あまりに度を過ぎたりと思うにつけ……日頃のあなたと都督の交わりをも想い合わせて、実は九分までは察していました」
「ああ、さすがは。よく観られた。まさにその通りにちがいない。不肖、呉に仕えて、三代のご恩をうけ、いまこの老骨を捧げても、少しも惜しむところはない。……故に、自らすすんで一計を立て、まず味方を欺かんがためにわざと百打の笞をうけたものじゃ。この苦痛も呉国のためと思えば何でもない」
「さてはやはりそうでしたか。……が、それまで思いこまれた秘策をひとりこの闞沢にのみお打ち明け下すったのは、この闞沢をして将軍の懐刀とし、それがしに曹操へ使いする大役を仰せつけたいお心ではありませんか」
「そうだ。まことに、ご辺の察する通り、ご辺をおいて、誰にこの大事を打ち明け、さらに、大事の使いを頼めようか」
「よくこそ、お打ち明け下さいました。私を知って下さるものです」
「では、行ってくれるか?」
「大丈夫、ひとたび、信をうけて、なんで己れを知る人に反けましょうぞ。世に出て君に仕え、剣を佩いて風雲に臨みながら、一功も立てずに朽ちるくらいなら、生きていても生きがいはありません。まして老将軍すら、一命を投げ出して、計りごとにかかっておられるのに、どうして小生らが、微生を惜しみましょう」
「ありがたい」
黄蓋は彼の掌をとって、じぶんの額にあてながら、涙をながした。
「事、延引しては、機を誤るおそれがある。将軍、そうきまったら、直ちに、曹操へ宛てて一筆をお書きなさい。それがしが、如何にもしてそれをたずさえて参りますれば」
「おお、その書簡はすでに人知れず認めて、これに隠してある」
枕の下から厚く封じた一通を手渡した。闞沢はそれを受取ると、さりげなく暇を告げ、夜に入ると、いつか呉の陣中からすがたを消していた。
それから幾夜の後とも知れず、魏の曹操が水寨のほとりで独り釣糸を垂れている漁翁があった。
悠々千里の流れに漁りして、江岸に住んでいる漁夫や住民は、もう連年の戦争にも馴れていて、戦いのない日には、閑々として網を打ち、鈎を垂れているなど、決してめずらしい姿ではなかった。
――だがこのところ、ひどく神経の鋭くなっている曹軍の見張りは、あまりに漁翁が水寨に近づいて釣しているので、
「怪しい老ぼれ?」
と見たか、たちまち走舸を飛ばしてきて、有無をいわさず搦め捕り、そのまま陸へ引ッ立てて行った。軍庁の一閣に、侍臣は燭をとぼし、曹操は寝房を出て、この深夜というに、ものものしく待ちかまえていた。
(呉の参謀官が、一漁翁に身をやつし、何ごとか曹丞相に謁して、直言申しあげたいとのこと――)と、耳おどろかす報らせが、たった今、曹操の夢を醒ましたのであった。
これに依ってみると、水寨の番兵に捕まった漁翁は、魏の陣中へ引かれてくるとすぐ、
(自分こそは、呉の参謀である)と、自ら名乗ったものとみえる。
――程なく。
曹操の面前には、みすぼらしい一竿翁が、部将たちに取り囲まれて引かれてきた。――が、さすがに一かどの者、端然と、階下に座をとり、すこしも周囲の威圧に動じるふうも見えなかった。
曹操も厳かにいう。
「汝は、敵国の参謀官とか聞いたが、何を血迷うて、予の陣営へ来たか」
「…………」
黙然と、見つめていたが、やがて闞沢は、ふふふふと、唇を抑えて失笑した。
「見ると聞くとは大きな違い。曹丞相は、賢を愛し、人材を求むること、旱に雲霓を望むごとしと、世評には聞いていたが……。いやはや……これでは覚束ない。――ああ黄蓋も人を知らずじゃ! こんな似非英雄に渇仰して、とんでもないことをしてしまったものだ」独り嘆じるが如く、うそぶいた。
曹操は、眉をひそめた。――変なことをいう漢かなといぶかったのであろう。急に怒る色もなく、
「敵国の参謀たるものが、単身、しかも漁翁に身を変えて、これへ来る以上、その真意を糺すは、当然
であろう。なぜ、それについて、しかと答えぬか」
「さればよ! 丞相。これに来る以上、それがしとても、命がけでなくては能わぬ。然るに、血迷うて何しにきたかなどと、決死の者に対して、揶揄するような言を弄さるるゆえ、思いつめてきた張合いも抜け、思わず思うまま嘆息したのじゃ」
「呉を滅ぼさんは、わが畢生の希いである。その目的に添うことならば、非礼を謝し、謹んで汝の言を聞こう」
「丞相にとっては天来の好事である。敬うて聞かれよ。――呉の黄蓋、字は公覆、すなわち三江の陣にあって、先鋒の大将をかね呉軍の軍粮総司たり。この人、三代があいだ呉に仕え、忠節の功臣たること、世みな知る。――然るを、つい数日前、寸言、周都督に逆らえりとて、諸大将のまっただ中にていたく面罵せられたるのみか、すでに老齢の身に、百打の刑杖を加えられ、皮肉裂け、血にまみれ、気は喪うにいたる。諸人、面をそむけ、ひそかに都督の酷薄をうらまぬはない。それがしは、黄蓋と古くより親交あり、日頃、兄弟の交わりをなせるものから、蓋老、病床に苦吟しつつ、ひそかに一書を認め、それがしに託して、丞相に気脈を寄せらる。――もとより骨髄に徹する恨みを、はらさんがためでござる。幸いにも、黄蓋は武具兵粮を司どる役目にあれば、丞相だに、諾! とご一言あれば、不日、呉陣を脱して、呉の兵糧武具など、及ぶかぎり舷に積載してお味方へ投じるでござろう」
眼をみひらき、耳を欹てて、曹操は始終を聞き入っていたが、
「ふーむ。……して、黄蓋の書面なるものを、それへ持参したか」
「肌に秘して、持ち参りました」 「ともあれ、一見しよう」
「……いざ」
と 闞沢は、侍臣の手を通して、書面を曹操の卓へ提出した。曹操は、几の上にひらいて、十遍あまり読み返していたが、どんと拳で案を叩きながら、
「浅慮浅慮。これしきの苦肉の計に、いかでこの曹操が詐られようか。明白なる謀略だ。――それっ、部将輩、その船虫みたいなむさい老爺を、営外へ曳きだして斬ってしまえ」
云いすてるや否、黄蓋の書状は、その手に引き裂かれていた。
闞沢は、自若として、少しもさわがないばかりか、かえって、声を放って笑った。
「あははは。小心なる丞相かな。この首を所望なら、いつでも献上しようものを、さりとは、仰山至極。音に聞く魏の曹操とは、かかる小人物とは思わなかった」
「だまれ。かような児戯にひとしい謀計をたずさえて、予をたばからんとなすゆえ、汝のそッ首を刎ねて、わが軍威を振い示さんは、総帥の任だというのに、汝こそ、何がおかしいか」
「いや、それを嗤うのではない。余りといえば黄蓋が、曹操などという人物を買いかぶ っているのを愍笑したまでだ」
「無駄だ。巧言を止めろ。われも幼少から兵書を読み、孫子呉子の神髄を書に捜っている。別人ならば知らぬこと、この曹操がいかで汝や黄蓋ごとき者の企てに乗ろうぞ」
「いよいよおかしい。いや笑止千万だ。それほど、蛍雪の苦を学びの窓に積み、弱冠より兵書に親しんできたという者が、何故、この闞沢のたずさえて来た書簡に対し、一見、真か嘘か、その実相すらつかみ得ないのか。世の中にこれほどばかばかしい自慢はあるまい」( 234話 )
― 次週へ続く―