三国志(224) 周瑜大都督 |  今中基のブログ

 まだ天地は晦かった。夜明けにはだいぶ間がある。周瑜は、家に帰る道すがら、
 「さてさて孔明という人間は、怖ろしい人物である。常に呉君に接して間近に仕えているわれわれ以上、呉君の胸中を観ぬいて少しも過っていない。人心を読むこと鏡にかけてみる如しとは、彼の如きをいうのだろう。どう考えても、その慧眼と智慮は、この周瑜などより一段上と思わなければならん」
 嘆服するの余り、ひそかに後日の恐怖さえ覚えてきた。――如かず、いまのうちに孔明を殺しておかないと、後には、呉の禍いになろうも知れぬ。
 「……そうだ」
 自邸の館門をはいる時、彼はひとりうなずいていた。すぐ使いをやって、魯粛をよび、
 「呉の大方針は確定した。これからはただ足下とわが輩とが、よく一致して、君侯と呉軍のあいだに立ち、敵を破砕するあるのみだから、――孔明のような介在は、あっても無益、かえって後日の癌にならないとも限らない――どうだろう? いっそ今のうちに、彼を刺し殺しては」
 と、ひそかに計ってみた。
 魯粛は、眼をみはって、             
 「えっ、孔明を?」 と、二の句もつげない顔をした。
 「そうだ、孔明をだ」と、周瑜はたたみかけて――「いま殺しておかなければ、やがて玄徳を扶け、魏と呉との死闘に乗じて、将来、あの智謀でどんなことを企むかはかり知れない気がしてならん」
 「無用です、絶対にいけません」
 「不賛成か、足下は」
 「もとよりでしょう。まだ曹操の一兵も破らぬうちに、すくなくもこの開戦の議にあずかって、たとえ真底からの味方ではないにしても、決して敵ではない孔明を刺してしまうなどは、どう考えても、大丈夫たる者のすることではありません。世上に洩れたら万人の物笑いとなりましょう」
 「……そうかなあ?」さすがに、決しかねて、周瑜も考えこんでいる容子に、魯粛は、その懐疑を解くべく、べつに一策をささやいた。


 それは、孔明の兄諸葛瑾をさしむけて、この際、玄徳と縁を断ち、呉の正臣となるように、彼を説き伏せることが、最も可能性もあり、また呉のためでもあろう――という正論であった。
 「なるほど、それはいい。ひとつ折をみて、諸葛瑾にむねを含ませて、孔明を説かせてみよう」
 周瑜もそれには異存はなかった。―が、かかるうちに早、窓外の暁天は白みかけていた。

 周瑜も魯粛も、
 「では、後刻」と別れて、たちまち、出陣の金甲鉄蓋を身にまとい、馬上颯爽と、江畔へ駆けつけた。
 大江の水は白々と波打ち、朝の光耀は三軍に映えている。勢揃いの場所たる江の岸には、はや旌旗林立のあいだに、五万の将士ことごとく集まって、部署、配陣の令を待ちかまえていた。
 大都督周瑜は、陣鼓のとどろきに迎えられて、やおら駒をおり、中軍幡や司令旗などに囲まれている将台の一段高い所に立って、
 「令!」
 と、全軍へ向って伝えた。
 「――王法に親なし、諸将はただよく職分に尽せ。いま魏の曹操は、朝権を奪って、その罪のはなはだしさ、かの董卓にもこえるものがある。内には、天子を許昌の府に籠め奉り、外には暴兵を派して、わが呉をも侵さんとしておる。この賊を討つは、人臣の務めたり、また正義の擁護である。それ戦いにあたるや、功あるは賞し、罪あるは罰す。正明依怙なく、軍に親疎なし、奮戦ただ呉を負って、魏を破れ。――行軍には、まず韓当、黄蓋を先鋒とし、大小の兵船五百余艘、三江の岸へさして進み陣地を構築せよ。蒋欽、周泰は第二陣につづけ。凌統、潘璋は第三たるべし。                            
第四陣、太史慈、呂蒙、第五陣、陸遜、董襲。―また呂範、朱治の二隊には督軍目付の任を命ず。 以上 しかと違背あるな」

 その朝、諸葛瑾はひとり駒に乗って、街中にある弟孔明の客館を訪ねていた。
 急に周瑜から密命をうけて、孔明を呉の臣下に加えるべく説きつけに行ったのである。
 「おう、よくお越し下された。いつぞや城中では、心ならず、情を抑えておりましたが、さてもその後は、お恙もなく」
 と孔明は、兄の手をとって、室へ迎え入れると、懐かしさ、うれしさ、また幼時の思い出などに、ただ涙が先立ってしまった。
 諸葛瑾も共に瞼をうるませて、骨肉相擁したまま、しばしは言葉もなかったが、やがて心をとり直して云った。
 「弟。おまえは、古人の伯夷叔斉をどう思うね」
 「え。伯夷と叔斉ですか」
 孔明は、兄の唐突な質問をあやしむと同時に、さてはと、心にうなずいていた。
 瑾は、熱情をこめて、弟に訓えた。
 「伯夷と叔斉の兄弟は、たがいに位を譲って国をのがれ、後、周の武王を諫めて用いられないと、首陽山にかくれて、生涯周の粟を喰わなかった。そして餓死してしまったが、名はいまに至るまでのこっている。思うに、おまえと私とは、骨肉の兄弟でありながら、幼少早くも郷土とわかれ、生い長じてはべつべつな主君に仕え、年久しく会いもせず、たまたま、相見たと思えば、公の使節たり、また一方の臣下たる立場から、親しく語ることもできないなんて……伯夷叔斉の美しい兄弟仲を思うにつけ、人の子として恥かしいことではあるまいか」
 「いえ、兄上。それはいささか愚弟の考えとはちがいます。家兄の仰っしゃることは、人道の義でありましょう。また情でございましょう。けれど、義と情とが人倫の全部ではありません、忠、孝、このふたつは、より重いかと存ぜられます」
 「もとより、忠、孝、義のひとつを欠いても、完き人臣の道とはいえないが、兄弟一体となって和すは、そもそも、孝であり、また忠節の基本ではないか」
 「否とよ、兄上。あなたも私もみなこれ漢朝の人たる父母の子ではありませんか。私の仕えている劉予州の君は、正しく、中山靖王の後、漢の景帝の玄孫にあたらせられるお方です。もしあなたが志をひるがえして、わが劉皇叔に仕官されるなら、父母は地下において、どんなにご本望に思われるか知れますまい。しかも、そのことはまた、忠の根本とも合致するでしょう。どうか、末節の小義にとらわれず、忠孝の大本にかえって下さい。われわれ兄弟の父母の墳は、みな江北にあって江南にはありません。他日、朝廷の逆臣を排し、劉玄徳の君をして、真に漢朝を守り立てしめ、そして兄弟打揃うて故郷の父母の墳を清掃することができたら、人生の至楽はいかばかりでしょう。――よもや世人も、その時は、諸葛の兄弟は伯夷叔斉に対して恥じるものだともいいますまい」

 瑾は、一言もなかった。自分から云おうとしたことを、逆にみな弟から云いだされて、かえって、自分が説破されそうなかたちになった。
 その時、江の畔のほうで、遠く出陣の金鼓や螺声が鳴りとどろいていた。孔明は、黙然とさしうつ向いてしまった兄の心を察して、
 「あれはもう呉の大軍が出舷する合図ではありませんか。家兄も呉の一将、大事な勢揃いに遅れてはなりますまい。また折もあれば悠々話しましょう。いざ、わたくしにおかまいなく、ご出陣遊ばしてください」と、促した。
 「では、また会おう」
 ついに、胸中のことは、一言も云いださずに、諸葛瑾は外へ出てしまった。そして心のうちに、
 「ああ、偉い弟」と、よろこばしくも思い、また苦しくも思った。
 周瑜は、諸葛瑾の口からその事の不成立を聞くと、にがにがしげに、瑾へ向って、
 「では、足下も、やがて孔明と共に、江北へ帰る気ではないか」と、露骨にたずねた。
 瑾は、あわてて、
 「何で呉君の厚恩を裏切りましょう。そんなお疑いをこうむるとは心外です」と、いった。
 周瑜は冗談だよ、と笑い消した。しかし孔明に対する害意は次第に強固になっていた。(224話)

                                                     ― 次週へ続く ―