三国志(214) 一帆呉へ下る |  今中基のブログ

 玄徳の生涯のうちでも、この時の敗戦行は、大難中の大難であったといえるであろう。
 曹操も初めのうちは、部下の大将に追撃させておいたが、
 「今をおいて玄徳を討つ時はなく、ここで玄徳を逸したら野に虎を放つようなものでしょう」
 と荀彧らにも励まされてか、俄然数万騎を増派して、みずから下知に当り、
 「どこまでも」と、その急追をゆるめないのであった。                                  
ために玄徳は、長坂橋(湖北省・当陽、宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、
 「わが運命もこれまで――」と、観念するしかないような状態に陥っていた。
 ところが、ここに一陣の援軍があらわれた。さきに命をうけて江夏へ行っていた関羽が、劉琦から一万の兵を借りることに成功して夜を日についで馳けつけ、漢江の近くでようやく玄徳に追いついてきたものであった。
 「ああまだ天は玄徳を見捨て給わぬか」
 こうなると人間はただ運命にまかせているしかない。一喜一憂、九死一生、まるで怒濤と暴風の荒海を、行くても知れずただよっているような心地だった。
 「ともあれ、一刻も早く」と、関羽の調えてくれた船に乗って、玄徳たちは危うい岸を離れた。――その船の中で、関羽は糜夫人の死を聞いて、大いに嘆きながら、
 「むかし許田の御狩に会し、それがしが曹操を刺し殺そうとしたのを、あの時、あなた様が強ってお止めにならなければ、今日、こんな難儀にはお会いなさるまいものを」
 と、彼らしくもない愚痴をこぼすのを、玄徳はなだめて、
 「いや、あの時は、天下のために、乱を醸すまいと思い、また曹操の人物を惜しんで止めたのだが――もし天が正しきを助けるものなら、いつか一度は自分の志もつらぬく時節がくるだろう」
 と、いった。

 するとその時、江上一面に、喊の声や鼓の音が起って、河波をあげながらそれは徐々に近づいてくる様子だった。
 「さては、敵の水軍」と玄徳も色を失い、関羽もあわてて、船のみよしに立って見た。
 見れば彼方から蟻のような船列が順風に帆を張って来る。先頭の一艘はわけても巨大である。程なく近々と白波をわけて進んでくるのを見ると、その船上には、白い戦袍へ銀の甲鎧を扮装ったすがすがしい若武者が立っていて、しきりと此方へ向って手を打ち振っている。
 「叔父、叔父。ご無事ですか。さきにお別れしたきり小姪の疎遠、その罪まことに軽くありません。ただ今、お目にかかってお詫び申すつもりです」
 彼の声もやがて聞えてきた。すなわち江夏城から来た劉琦なのである。玄徳、関羽のよろこびはいうまでもない。舷々相ふれると、玄徳は劉琦の手をとって迎え入れ、
 「よくこそ、私の危急に、馳けつけて下すった」と、涙にくれた。
 また、数里江上を行くと、一簇の兵船が飛ぶが如く漕ぎよせてきた。――一艘の舳には、綸巾鶴の高士か武将かと疑われるような風采の人物が立っていた。すなわち諸葛亮孔明だった。
 ほかの船には、孫乾も乗っていた。――一体どうしてここへは? 人々が怪しんで問うと、孔明は微笑して、
 「およそこの辺にいたら、各〻と落合えるであろうかと、夏口の兵を少し募って、お待ちしていただけです」と、あまり多くを語らなかった。                                               
危急に迫って、援軍をたのんでも、援軍の間に合う場合は少ないものであるが、それの間に合ったのは、やはり孔明自身行って、関羽らをよく動かしたからであろう。しかし、それをつぶさに語るとなると、自分の口から自分の功を誇るようなものになるので、孔明は、
 「さし当って、次の策こそ肝腎です。夏口(漢口附近)の地は要害で水利の便もありますから、ひとまず彼処の城にお入りあって、曹操の大軍に対し、堅守して時節を待たれ、また劉琦君にも江夏の城へお帰りあって、わが君と首尾相助けながら、共に武具兵船の再軍備にお励みあるが万全の計でしょう」と、まず将来の方針を示した。

 劉琦は、同意したが、
 「それよりも、もっと安全なのは、ひとまず玄徳どのを、私の江夏城へおつれして、充分に装備をして
から、夏口へお渡りあっては如何ですか。――いきなり夏口へ入られるよりもそのほうが危険がないと思われますが」と、一応自分の考えも述べた。
 玄徳も孔明も、
 「それこそ、然るべし」と、意見は一致し、関羽に手勢五千をつけて、先に江夏の城へやった。そして何らの異変もないと確かめて後、玄徳や孔明、劉琦などは前後して入城した。
 
一方、すでに長蛇を逸し去った曹操は、ぜひなく途中に軍の行動を停止して、各地に散開した追撃軍を漢水の畔に糾合したが、
 「他日、玄徳が江陵に入っては一大事である」
 と、さらに湖南へ下ってそこを奪い、一部の兵を留めて、すぐ荊州へ引っ返してきた。
 荊州には、とか劉先などという旧臣が守っていたが、もう幼主劉琮は殺され、襄陽はおち、軍民すべて曹操の下に服してしまっているので、
 「もはや誰のために戦おう」と、城門をひらいてことごとく曹操に降服してしまった。
 曹操は荊州に居すわって、いよいよ対呉政策に乗り出した。
 ――呉を如何にするか。
 これは多年の懸案で、しかもこの対策に成功しなければ、絶対に統一の覇業は完成しないのである。        
 「檄文を作れ」
 荀攸に命じて、檄を書かせた。もちろんそれは呉へ送るものである。いま、玄徳、孔明の輩は、その余命をわずかに江夏、夏口に拠せて、なお不逞な乱を企ておる。予、三軍をひきいて、疾くこれに游漁す。君も呉軍をひきいて、この快游を共にし給わずや。漁網の魚は、これを採って一盞の卓にのぼせ、地は割譲て、ながく好誼をむすぶ引出物としようではないか。
という意味のものだった。

 ただし曹操としても、こんな一片の文書だけで、呉が降参してこようなどとは決して期待していない。いかなる外交もその外交辞令の手もとに、(これがお嫌なら、またべつなご挨拶を以て)といえる「実力」が要る。彼は呉へ檄を送ると同時に、その実力を水陸から南方へ展開した。
 総勢八十三万の兵を、号して百万ととなえ、西は荊陜から東は蘄黄(きこう)にわたる三百里のあいだ、烟火連々と陣線をひいて、呉の境を威圧した。(214話)


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