夜、劉邦は逃げた。6月の晦日で、昨夜の雨気が、星を覆っていた。
(何度目だろう) と、思いつつ。 かつて彭城の大敗戦で逃げたときは、車だった。あのとき馭者の夏侯嬰が二頭の馬の尻を血で赤くするほどに鞭打ちつづけ た。車上に劉邦の息子と娘が同乗していた。劉邦は車を軽くするためにその二人を何度も突きおとしたが、そのつど夏侯要がひろった。
(その後、何度逃げたろう)
いつの遁走のときも車輪が気ぜわしくまわっていたが、こんどばかりは徒歩だった。項羽軍が西方からさかんに運動して成皋城を包囲し、劉邦を捕えようとしている。闇の中で柏の若木を見ても楚兵かとおびやかされた。車輪の音さえはばかられたのである。
ついてくる者は、夏侯嬰しかいない。
「上よ、上よ」 と、夏侯嬰がしばしば狼狽した。闇が深く、劉邦が道かとおもって足を踏み入れるとそのまま水が顔まできた。
「そこは小川でございます」 夏侯嬰が猿骨をのばしてひっぱりあげねばならなかった。 かれらは、黄河の岸をめざしていた。いま置き捨ててきた成皋城のそばを黄河が東流しており、岸までの距離は遠くなかった。しかし星あかりがないために、しばしば道を見失った。
劉邦は、敗けてばかりいる。 とくにここ50日ばかり、敗けることに忙しかった。先月のはじめ、その最前線の大要塞である滎陽城(成皋城に隣接する) に周苛ら留守部隊を残留させ、自分は小人数で逃げ出した。いったんは後方根拠地ともいうべき関中にもどり、新兵を募って兵力を回復した。この間、
----項羽に重囲されている滎陽城をかならず救援する。
と言いながら、滎陽へはゆかず、はるか南方へくだって宛城(河南省南陽)に入り、
----漢王劉邦は、宛城にいるぞ。
と、四方に宣伝させた。客分の衰生という凡庸な男の献策によるものであったが、この窮余の一策は劉邦が演じた戦略(といえるならば)の中でも結果として見事に成功したものの一つであった。多分に反射的な行動癖のある項羽の性格を端的に刺激した。
----あの鼠めが。
項羽はいそぎ滎陽の囲みを解き、地ひびきを立てるようないきおいで南下し、劉邦の宛城を囲んだ。このおかげで、周苛ら滎陽城守備隊は、息をつくことができた。
----項羽め、来よったわい。
と、劉邦は食事中、箸をおいて大笑いしてみせたが、内実怖くもあった。この作戦は劉邦自身が自分の肉を餌にして項羽という虎を奔命に疲れさせるというもので、餌になっている劉邦の怯えは、当人でなければわからない。
劉邦の戦略は張良ら幕僚たちが立案するとはいえ自己を弱者であると規定し、その恐怖感情から発想されたもの ばかりであった。
----子房(張良)よ、このあと、どうすればよいか。
項羽にまともに博撃されれば宛城などひとたまりもない。
----大丈夫でございます。
項羽がふたたび他へ転じてゆくための仕掛けを張良はつくってあった。この時期、圏外にあって遊撃活動をしつづけているゲリラ隊長の彭越にすでに言いふくめてあり、遠く下邳(江蘇省邳県)において楚軍の糧道を断ち切るべく行動させつつあった。
----ああ、彭越のやつがそれをやっているのだったな。
劉邦は、思い出した。
彭越は盗賊あがりだけに、この種のしごとにかけては名人といえた。が、このときめずらしく組織的な軍隊をひきい、下で項羽の一族の項声を将とする楚軍と遭遇し、会戦した。
----彭越など、煙のようなものだ。
項羽はたかをくくっていた。
ところが劉邦が宛城にいるとき、彭越は項羽の楚軍を大いにやぶったのである。項羽は、度を失った。
項羽が天下に誇示するところは勇であった。それだけに敗けることを病的にいやがった。この場合も激怒して宛城の囲みを解き、彭越をみずから撃つべく北にむかって駈けのぼった。勇というのは結局、戦術規模の行動しかとれないのであろうか。
これに対し、劉邦という弱者の場合、考えだすことは戦術ではなく、戦略しかなかった。劉邦は大きな網であり、項羽はするどい錐であったということがいえる。
----このすきに。と、劉邦は思った。宛城を脱け出し、間道伝いに北へ走った。やがて黄河南岸の成皋にもぐりこんでしまった。成皋城と滎陽城は、幾度もふれたように隣接し、相連関しあっている。両城とも敖倉の山の中の巨大な倉穴から穀物をえて城市としての生命を維持しているという点で、胎内の双生児といっていい。この両城については、かつて項羽の軍師の范増が、
----蠅(劉邦)が、食物(敖倉を持つ滎陽城と成皋城)にたかるようなものです。食物を片づけてしまえば蠅は行きどころを失います。両城を徹底的に覆滅し、救敖倉をもおさえこんでしまいなされ。と、項羽に口を酸っぱくして説いたのだが、容れられなかった。戦術的勇者である項羽にすれば食物を片づけるという迂遠な---あるいは戦略的なやり方---よりも劉邦という蠅をたたき殺すというほうを好んだ。おれは項羽だ、という苛烈な---力ハ山ヲ抜キ気ハ世ヲ蓋フ、という後のかれの詩にもあらわれている精神が、項羽の行動をつねに方向づけていた。かれは北上し、東進して、彭越軍を木っ端みじんに砕いた。ただし彭越その人はとり逃がした。
次いで、----劉邦が成皋城に入った。
その報を得るや、項羽はいち早く西へ翻転した。西進し、火を噴くように滎陽城を攻め、これを屠った。守将周苛がとらえられ、烹殺されるのは、このときである。
その勢いを駆って、劉邦がもぐりこんでいる成皋城をかこんだ。
----項王、来る、項王、来る。
という注進が入るや、劉邦はもうこらえ性がなくなっていた。成皋城の城内に将士を置きざりにし、城の玉門(北門)から逃げてしまったのである。
----項羽にかなうはずがない。
と、劉邦はもはや負け癖のついた犬のようなものであった。 ひとつには兵力不足もあった。北方にいる韓信から新占領地の降伏兵を送らせたとはいえ、それだけでは到底勝負にならなかった。
劉邦と夏侯嬰は、ようやく黄河の岸にたどりついた。
葦のあいだに舟をみつけたとき、「大王の御運尽きたまわず」
と、夏侯嬰はよろこび、劉邦を突きとばすようにしてのせてから水に入って舟を押し出し、やがて艫から飛びのって漕ぎだした。夏侯嬰は、油びかりするほどにすぐれた筋肉質の体をもっていた。風が強くなった。 この風が雲を走らせはじめたらしく、雲の切れ間に星の光りがのぞくようになった。
劉邦は寝ころんで星の数をかぞえていた。生来のんきな性格ではあったが、不意に星が流れたのを見たとき、悲しみが胸を襲った。
暗い川波が、そのまま天につながっている。このまま星の世界に昇ってゆくような気がして、 「嬰よ、なさけないことだな」といった。嬰とはいつの戦場離脱のときも一緒だった。このように敗けてばかりいて、あげくのはてはどうなるのだろう。
「このまま星の国へゆければどんなにいいだろう」
「いいじゃありませんか」
夏侯嬰も劉邦と似たことを思わぬでもない。しかし一方、沛の町の県庁の馭者だったことを思うと、どうなってももともとだと思っているし、劉邦もまたあの町のあぶれ者だったではないか。「あなた様には、天運がついてまわっているのでございますから」
「五彩の雲のことか」ばかばかしい、といった。劉邦のいるところには五彩の雲がかかっているなどと最初誰が宣伝したのか。
「あなた様ご自身がお疑いになっちゃ、いけませんよ」
夏侯嬰は、帆を張りながらいった。うまいぐあいに風むきが変わった。
「疑いもするわ。天運があればこうも敗けまい」と、劉邦がいった。
「敗けるのは、陛下がお弱いからです。天運と何の関係もありません」
しかしこう敗けこんではどうにもならない。以前は敗走するにしてももうすこし配下がいた。 「それにしても韓信はひどいやつですな」普通、信じられるだろうか。
この地域では黄河は東流している。その南岸は滎陽・成皋であり、そこでは主君である漢王 劉邦が項羽に追いあげられて命の灯がいつ吹っ消えるかわからないほどの凄惨な激闘をつづけているのに、韓信は悠然と北岸にあり、大軍を擁して知らぬ顔でいる、と夏侯嬰はいう。
「いかに黄河とはいえ、河一筋じゃありませんか」「あいつは、ああいうやつなんだ」
会えば憎めないのである。「それに、あいつからは、随分補充の兵を送ってもらっている」
劉邦は総帥だから配下の悪口は言えないのである。言えばその男の耳に入って、気骨ある者なら敵へ寝返ってしまう。
「送ってくるったって、魏兵など役に立ちませんよ」韓信が平定して降伏させたばかりの兵だから、漢になじまず、死力を奮って戦うということをしない。もっともこのことを夏侯嬰が怒るのはお門違いで、韓信にすれば、劉邦が兵を送れとばかり言うため、折角戦いに勝っても兵力の増加にならないのである。折角送った兵も劉邦が敗けてばかりいるために四散し、焼け石に水どころではなかった。
「無駄だ、と韓信は言っているらしいですよ」
「嬰、お前は人の悪口をいわないのがいいところだったのだが」
「この為体で」夏侯嬰は足をあげ、舟板を一つ踏み鳴らして「韓信を褒めていられるでしょうか」夏侯嬰が言う 為体とは、劉邦の敗運が極まって、ついに二人っきりになってしまったことをさす。「それに、陛下、私が韓信の悪口をいっても構わねえはずだ」ついお里言葉が出た。
「あいつを陛下に取りなしたのはこのあっしだからね」「おぼえているよ」
韓信がまだ無名のままで劉邦に属したばかりのころ、軍法に触れた者が十四人あり、斬刑に処せられてその順が韓信まできた。夏侯嬰が通りかかって韓信の面魂を見ておどろき、劉邦に、主上よ、あなた様は天下の大業を遂げようとは思われないのですか。あの壮士を喪ってどうなさるのです。と言ったため劉邦は韓信の縛を解かせ、治粟都尉にした。
「あれは蜀にいた頃だ」「あの糞ったれ」少しばかりの才と手柄を鼻に増長しやがってと夏侯嬰はいった。嬰は馭者ながら藤公と尊称されている男だが、言葉ばかりはどうにもならない。
「あいつもいそがしいのだ」劉邦は、ねむそうな声で弁護した。韓信ほどの奇跡を現出した天才はかっていたろうか。あっというまに魏を平定したかと思うと代を手に入れ、趙をほろぼし、燕を併せてしまったのである。黄河以北の広大な大地のなかで韓信がまだ手をつけていないのは斉(山東省)だけではないか。斉について韓信は趙の降将広武君(李左車)の意見を容れ、攻伐を一時、休止した。広武君の意見というのは、
「将軍は南から興って疾風枯葉を巻くがごとき勢いで連戦連勝して広大な版図を得られました。しかし兵は疲れています。疲労した兵をもって斉の堅城群を討つと無理が生じます」
というものであった。その後、韓信ははるか南の黄河北岸にもどり、兵を休め、訓練し、東方の斉への補給路を建設している。少なくともそのように劉邦は報告を聞いている。
―次週へ続く―