韓信の頭も柔らかい。 |  今中基のブログ

 「韓信の作戦準備の基礎には、克明な情報収集があった。張耳がかつて趙国の要人であったために陳余の側近には旧縁の者が多い。韓信はこれらに利をくらわせて陣中の逐一を諜報するように頼んであり、右の一件は早くもかれの耳に入っていた。
 (井陘の小道が無事通れるというのならいくさは勝ったようなものだ)とおもった。これによってかれは安んじて井陘の道を通過した。やがて井陘口の手前二十キロの山中で軍をとどめ、宿営し、同時に最後の攻撃準備をした。
 このとき、かれは後世に有名な「背水の陣」の作戦をことごとく準備し了えるのである。まず奇計用の部隊2千人を編成し、その一人々々に漢軍のしるしである赤い幟をもたせ、
 「敵にみつからずに山中の間道を縫い、山上から敵の井陘城を望見できる所まで行って埋伏しておれ」と、命じた。
 いま一つこの部隊に命じた。戦いの最中に私はいつわって軍を敗走させるつもりだ、敵はおそらく井陘城や諸塁を空にして追ってくるだろう、すかさずお前たちは空の敵の城塁に入り、漢の赤幟を林立させよ、というものであった。
 翌朝、韓信は全軍といっても約2万人にすぎなかったが――を3段に分け、暗いうちに全軍に簡単な食事をとらせた。
 その上で諸隊長をよびあつめ、「正規の朝食は、戦いがおわってから摂ろう」
 といった。諸将はおどろいた。朝食前にいくさが片づく、勝つ、ということであった。たれもが肚の中で嗤ったったというから、韓信の才はこの時期では自軍においてすら十分には認識されていなかった。かれは奇計用の部隊を前夜に出発させている。この日の未明以前に、主力軍一万人を先発させた。出発させるにあたって、「私はあとから出てゆく」と、先発する主力軍の諸将に言い、はじめて作戦を明かした。

 かれは枯枝でもって地面に敵陣の配置やその付近の地図をかき、最後に大きく線をひっぱって、「これが、泜水の流れだ」と、いった。諸君はこの水の流れの内側---敵陣の側---に入って陣を布け、といった。泜水を背にするということであった。
 「それでは背水になりますが」諸将はおどろいた。背水の陣は凶であるとして兵家がいましめている。兵書にいう正しい布陣場所というのは、山稜を右にし、水沢を前面あるいは左にする、ということで、敵の趙はそのとおりに布陣してい る。韓信の指定は、常識の逆であった。
 「もし敵が仕かけてくればどうしますか」
 「背水でいい。やがて私が最後の隊をひきいて出てゆく」
 「将軍が来られる前に敵が仕掛けてくればどうなります」
 背後の水にとびこんで溺死せざるをえないではないか。
 「決して敵は仕掛けて来ない」
 韓信は、敵を読みきっているように言った。敵が欲しいのは主将である韓信の首で、韓信さえ討ちとれば漢軍は四散する。先発軍が背水して布陣しても、これに仕かけて潰乱させれば、肝心の韓信の本軍が戦わずに逃げてしまう。敵はそう思って自重する、と韓信はいうのである。
 「繰りかえし言うが、敵は私の旌旗が山の中から出てくるまで必ず待つ」と、いった。
 一万人の先発軍が井陘口から広闊な野に出たときは、夜がまだつづいていた。趙軍は韓信軍の松明のむれを見、物見を派遣し、舐めるように動きを探り続けたが、やがてかれらが泜水を背にして布陣したのを見ると、走卒にいたるまで、---韓信は兵法を知らない。と、口々に言い、大笑した。韓信が買いたかったのはこの嘲笑であった。
 やがて夜が白みはじめるころ、韓信の本隊が井陘口からあらわれた。大将旗をひるがえし、鼓を鳴らして勢いよく趙軍にむかって進撃してきた。先着の主力軍は第2段になって泜水のほとりで動かない。進撃してくるのは、韓信と張耳の直率部隊だけであった。
 「もう、よかろう」陳余は、諸将に命じた。
 どの城塁もいっせいに門をひらき、諸隊が先を争って押し出した。大軍に戦法なしといわれる。勢いがあればよかった。李左車さえそういう気になった。趙軍は白波だつ海嘯のようにひた押しに押してきて、やがて韓信軍に襲いかかった。
 韓信は、その部隊とともに囮になった。この時代でも囮作戦はあったが、大将とその直率部隊が囮になるというのは前代未聞のことであった。
 矢が飛び、剣光が韓信の両眼をかすめた。直率部隊はよく戦ったが、やがて微塵に敗れてしまい、鼓も鉦も投げ捨て潰乱した。逃げて、第2陣になだれこんだ。それ以上に逃げようにも、河がはばんでいた。陽が昇って早々の河は鉛を溶かしこんだように黒く音もなく流れていた。
 韓信は敵のほうへ馬頭をひるがえした。「死ね」 と、叫んだ。
 逃げて溺死するほどなら、戦うほうがまだ生き延びる見込みがあった。生きようと思えば、敵を破ることしかなく、誰もが恐怖の中でそう思った。
 「死にたくなければ、戦え」と、下級指揮官にいたるまで口々に叫び、直率部隊と第2陣とが一つになって敵にむかって突進した。しかし趙軍は多く、味方は寡く、戦場に繰り広げられた戦いの渦はともすれば趙軍のほうが有利であった。
 そのとき、戦場の一角で異変がおこった。韓信が隠していた2千の部隊が山から出現し、疾走して趙軍の空き城や塁に入り、城頭や塁頭に2千本の赤い幟を立てたのである。
 趙軍に大恐慌が起った。「漢はすでに趙王や陳余を殺して城塁を奪った」と、誰もが思い、兵は故郷へ帰るべく逃げはじめ、ついに大潰乱した。陳余もこのなかにいた。おれはここにいる、と叫び続けたのだが、かれ自身、どこへなりとも逃げたかった。このころになると、空き城の占拠軍が打って出、背水軍とともに趙軍を挟撃した。やがて戦いがおわり、趙王、陳余、それに李左車がとらえられた。韓信は約束どおり全軍に休息を命じ、朝食を出した。

 昼すぎ、韓信は趙王を劉邦のもとに送った。陳余についてはその生命を断つ以外になかった。泜水のほとりにひき出し、首を刎ねた。首は冠をかぶったまま落ちた。
 李左車は縛られたまま韓信の前に引出された。韓信はみずからその縛めを解き、
 「あなたに師事したい」といって、自軍をも李左車をも驚かした。言葉どおり李左車を東向きにすわらせ、自分は低く西にむかってすわり、師弟の礼をとった。
 (妙な男だ)と、張耳はおもった。
 夜、韓信は張耳の幕舎にやってきて、この新占領地の趙の治め方について相談した。
 再び、妙なことをいった。「張耳さん、あなたが趙王になるべきです」
 張耳が驚いたのは一介の将軍の韓信が帝王のようなことを言い出したことであり、懼れたのは、韓信と自分という吏僚同士がそういう勝手なことを話しあったということが漢王劉邦に知れれば---知れるのが当然だが---どんな疑いを受けるかということであった。
 「当然でしょう」韓信はいった。趙をおさめる徳と因縁を持った者は、天下に張耳しかいないではありませんか。「泰平の世なら別です」天子の決めることです、といった。しかしいまは非常のときである上に、劉邦自身が窮しきっている。韓信はさきに魏を得てその兵を劉邦に送ったが、いままたあらたに趙の兵を送らねばならない。趙の父老たちを納得させるには、張耳が趙王になる以外にない、と韓信はいった。
 「漢が勝つためには、あなたがただちに趙王になるしかないのです」
 (たしかにそのとおりなのだが)しかし世間というものは別だ、とこの老人はおもった。韓信は傲って王まで決めてきたか、と劉邦やその側近は思うにちがいない。
 「韓信さん、あなたの立場がわるくなりますよ」張耳がいった。韓信にはその言葉の意味すら理解できなかった。かれはとりあえず趙人に対し、きょうからは張耳どのが王だ、と宣言した。同時に事後承諾を求めるようにその旨、建白書を劉邦のもとに送った。やがて、
 「そのようにせよ」という劉邦の簡潔な返事がとどき、趙王としての印璽も送られてきた。しかし劉邦の感情までは伝わって来ない。(斉をどうするか)ということについて、井陘口の戦勝の翌日から韓信は考えていた。この勢いを駆って北方の燕や東方の斉までくつがえして しまいたい、と思った。が、必ずしも自信がなかった。
 師父に相談した。李左車のことである。 李左車はしきりに遠慮をしたが、韓信がしつこくたずねたため、婦人のように優しい声で、
 「兵の休養が大切です。それに、燕や斉へ遠征するにはよほど補給が整っていなければ失敗を喫するでしょう」と、答えた。韓信は少年のような素直さで、その言葉に従った。
 (韓信の性格には、欠けたものがあるのではないか)
 張耳はおもった。捕虜の一人をしきりにあがめて師父とよび、その片言隻句を聞いては素直にありがたがっているのである。
  (該子だ)と、張耳はときに思い、ときに井陘口の鮮やかな戦勝を思うと、馬鹿にもできない、と思ったりする。本来、師父などというものを韓信は持つべきでない、と張耳は思っていた。韓信は将軍とはいえ、劉邦のレベルからみれば走狗にすぎず、劉邦の政略や戦略に沿って一部分を纏めていればいい。師父とは、項羽が亜父とまでよんで尊んでいた范増こそその好例であろう。劉邦における張良も師父と見られなくはない。師父は政略や戦略を専門に考える存在で、翩々たる一将軍にそういうものが必要であろうか。もし必要とすれば韓信に何事か野心がある証拠ではないか。(韓信とは、あまり親しくはなれない)と、思った。後日、謀叛の疑いでもおこった場合、巻添えを食い兼ねない、と思うのである。
 そのうえ、張耳に滑稽だったことは、(李左車など師父というタマか)ということであった。兵卒あがりの将軍で、なるほど補給については詳しいが、天下の行末まで見通して大政略をたてる頭脳などありそうになかった。その程度の男を「師父々々」とあがめて、韓信はついてまわっている。(よほど、ちぐはぐな男らしい)巨大な天才が、最も子供っぽい心に宿ってしまっているのだ、と張耳は韓信をそのように理解しようとした。
 韓信は張耳と別れねばならない。この老人を趙の地に置き、自分は南下し、魏---河東郡---の南端の黄河に近いあたりまでくだって、はじめて駐まった。
 かれがあらたに根拠地を置いたのは、修武(河南省)という町である。
 修武は県城規模の町である。周の時代、寧といった邑で、黄河流域の文明が早く拓けた土地だけに、土地は肥沃で、人口が多く、兵や糧を手に入れるのに格好の土地だった。
 韓信はここで他日斉を攻撃するための準備をした。
 李左車を気に入ること、日ごとに甚だしくなった。趙から修武までのながい帰還行軍のなかで、韓信は李左車から教わることが多かった。この師父は牛の皮を伸ばしたようにとりとめもない顔をしている。無口で、物を論じたりすることが殆どなかった。

 ただ、宿営地をきめること、その割当、食糧の輸送、あるいはその分配といった日々の軍隊業務を、李左車はたんねんに、要領よくやってゆくのである。韓信は補給を重視する男であったが、ただ書生あがりであるために実務に暗かった。どういう 作戦も日々の実務の集積から離れては成立しないものであったが、韓信は李左車の身動きをながめているだけで、実務のあらゆることがわかった。
 たとえばある日、凶暴な兵がいて、人を傷つけた。檻に入れてもなお暴れていたが、いつのまにか静かでおだやかになった。 韓信が李左車にわけをきくと、  
 「食事から塩を次第に減らして行っただけです」
 といった。塩分がすくなくなると、人間は元気がなくなるという当たり前のことを李左車は兵士の統御の技術にしていた。狡猾なほどの智恵であった。当人に元気がなくなったところへ、郷党の同僚に説諭させるのである。
 修武では、李左車は兵の訓練に任ずる一方、食糧集めと、斉までの宿駅ごとにそれを集積してゆく業務に任じた。また兵食に油をふやす一方、料理を美味にする技術の普及まで組織的にやった。
 ---韓信殿の軍は、食べるものがみな旨い。という評判ができたのは、李左車のお蔭だった。
 こういう男を、韓信は師父とよんでいるのである。暴な兵を塩抜きしておとなしくさせる技術をもっているような男を、韓信が天下を得るための師父として期待しているはずがなかった。張耳も韓信という人間がよく見えなかったといっていい。
 また韓信が旧魏の南端の修武まで戻ってきてここを策源地にしたのは、旧魏を治める点でも不便であったし、つぎの攻撃目標の燕や斉を望むについても遠すぎた。
唯一の理由は、劉邦の戦線と地理的に近いということであった。劉邦からの命令や連絡をことならば受けやすいと思ったからだが、劉邦の本営ではそうは思っていなかった。
 (斉を伐てという命令を受けていながら、なぜ修武まで戻ってきたのか)と、誰もが不審に思った。        

    ―次週へ続く―