のちの漢軍大将軍も食うや食わずの流浪の民、 韓信という一介の素浪人。 |  今中基のブログ

 項羽は、ひきつづき関中にある。 その陣中に、韓信という背の高い男がいた。 その存在は無名にちかく、後年、韓信自身がこの当時をかえりみて、こう言っている。
 「わしは項王に仕えていたとき、位は郎中(近侍役)で、数多い親衛部隊のなかの下級将校にすぎなかった」と。その韓信が、項羽の楚軍を抜けて劉邦の軍に加わり、楚漢戦争で重要な役割を果たすのだから、歴史は面白い。
 ともあれ項羽が劉邦をおさえこんで関中の主人公になったあと、かれの十万の軍隊は一人ひとりが猛獣に化したように秦都咸陽へひしめきすすんだ。 「宝の山だ。みなほしいままにふるまえ」 項羽は、掠奪を許した。 咸陽の旧宮殿から阿房宮とよばれる新宮殿、さらには滑水の畔の殿舎、親王や大官の館、また始皇帝が集めた富商の邸宅など、すべてがかれらの餌食になった。
兵は掠奪だけがたのしみなのだ、ということを項羽はよく知っていた。かれらが百戦の苦に堪えてここまでやってきたのは、その目で咸陽の美を見、その両腕に抱えられるだけの財宝を奪い、できれば後宮へ駆けこんで美女を犯したいという一心から であった。

 韓信も、その怒濤のような掠奪者のむれにもまれつつ咸陽に入り、有名な阿房宮にもまぎれこんだ。なにしろ将軍級の人物が、掠奪の群れの中に入って、すべてをわが物にすべく狂ったように手下を指揮していた。かれらがどんどん美女を担ぎだしてはその将に献じようとすると、他の将の兵が横あいからそれを奪ったりした。
  (これが有名な大広間か) 「韓信が兵にもまれつつ入ると、真冬というのに、かつて始皇帝が廷臣一万人を収容すべくつくったこの大広間の 大空間が、欲望の熱気で煮えたぎっていた。大広間に林立する無数の柱は金箔でつつまれていたが、奪うものがなくなった兵たちが柱によじのぼってその金箔まで掻きとっていた。   
 韓信は、すでに驪山の始皇帝陵が暴かれつつあることも知っていた。始皇帝が地上の富以上の財宝をその地下に収めさせたといわれるだけに、項羽軍の半ばはこの人工の丘陵に殺到し、鍋をふるってそれをあばくことに熱中していた。ただし、すべてが掠奪されたわけでなく、かれらが奪いのこした一部が二千年後に、人民国家の考古学者の手で発掘されることになる。やがて項羽は、阿房宮その他に柴を積み、火をかけさせた。
 渭水の水まで煮えさせるほどのその猛炎のなかを、韓信は風上を縫ってはほっつき歩いた。この男は、一種の怠け者といえるかもしれなかった。掠奪まで怠け、一品も奪らず、一女も犯さなかった。韓信の道徳がそうさせたのではなかった。韓信の場合、もともと道徳という観念が少量しかその精神のなかにない。
  (さきに咸陽に入った劉邦は、なぜこの盛大な祭礼をやらなかったか)
と、考えた。韓信にすれば軍隊ほどおもしろいものはない。戦勝後の掠奪強姦はその祭礼ぐらいにしか考えておらず、むしろ士気をたかめるために有効だとさえ思っていた。
 (劉邦の兵力が弱小だったからだ)
 韓信の目は、冷酷なほど物の実相を見ていた。劉邦にとっておそれは、あとから来る項羽の大軍であった。さきに掠奪すれば項羽とその諸将からうらまれることを怖れた。このためあわれにも咸陽に兵を入れず、府軍を封印し、宮廷の男女の生命財産を保証したのだろう、と韓信はおもった。かれは歩卒に毛の生えた程度の兵士にすぎなかったが、対等以上の水位から劉邦の心事を忖度した。
 賢ぶった者は、「劉邦には天下に望みがある。関中の人心を繋ぎ止めるために兵の乱暴を封じたのだ」と、わけ知り顔にいうが、韓信の感覚ではそうは思えなかった。
 (やつが項羽の立場とその強大さをもっていれば同じことをやったろう。要は兵力の大小のみだ)
 と、考えた。
 かれの故郷の准陰はこんにち清江市とよばれる。「かれはこの繁華な町の酒巷でうまれ、貧のなかで成人した。そういう境涯である以上、商いを習うか、役所勤め でもすべきであったが、そのどちらもせずに、遊民になった。つまりは知りあいの家に転がり込んでは食い潰し、その都度信用まで失ったが、しかし次々に知人の居候になった。この間に、逸話が多い。准河のほとりで布を晒している老婆がこの遊び人が餓えているのを見かね、犬にでも与えるようにして飯を食わせた。数十日も食わせた。日が経ち、晒し仕事が終るころ、韓信が老婆に礼を言い、いつか恩を返したい、と言うと老婆は「大きな口をたたくもんじゃないよ、私やあんたが餓じがっているから飯を与えただけで、礼など貰おうとは思わないよ」と、罵るように言った。
 韓信は罵られて当然。大きな体をボロで包み、いつも腰に長剣を鳴らしてほっつき歩いていた。

 あるときごろつき連中が韓信をからかって、その長剣でおれを刺してみろ、刺せなきゃおれの股をくぐれ、と衆人の前でおどしあげた。このとき韓信はおとなしく這って股をくぐった。市中のひとびとは韓信を臆病者だ といってさげすんだが、後年、韓信が名将の名をほしいままにしてから、ひとびとはこれをかれの大勇の証拠だと いうふうに美談にした。しかし韓信の本質の一つにその臆病さがあったのではないか。
 後年のかれは敵を読む場合、つねにあらゆる材料を自分の極端な臆病さで濾過することによって考え、判断し、 さらには味方の防禦を性格のその部分によって完全なものにした。
ただ、かれの性格には大きな矛盾が、平然と同居している。一方では勇気を必要とする緊張感を好み、この疼くような緊張へのあこがれがかれ自身に自分こそ軍事的天才だと思わせ、さらには遊民時代、長剣をがちゃつかせて歩くというスタイルを作らせた。賭博の才もあった。 
 賭博を前にするとき、水のように冷静になったが、しかし変わっているのは、負けるというカンが働けば決して張らないことであった。張らないことによるどんな不名誉でも忍んだ。そのことは忍耐という美徳でよぶよりも厚顔というべきもので、右の挿話の場合も、雄大な筋骨の若者を前 にしたとき、とても勝てないと思い、面の皮を厚くし、犬のように這い、相手の股をくぐったということに過ぎない。ただくぐるとき、韓信特有の異様な冷静さと厚顔さが、その精神と身動きをゆったりと保たせ、見物の中の一部の人々を感歎させた。むろんこの場合かれの後年の軍事能力に結びつく打算も働いていた。相手には背後に 徒党がひかえている。こういう連中と喧嘩をすれば命をおとすか、准陰の町に居られなくなるという平凡な打算である。
 この男が、秦への反乱の最初である陳勝の暴発がひろがったとき、そこへ身を投じなかったのは、ふしぎなくらいである。ひとつは陳勝の反乱がひろがってゆく地帯よりもやや南に進陰があり、すぐ駆けつけられなかったということもあったろう。
 長江の南で成立した項梁軍のほうにこの男が魅力を感じたということもあった。陳勝のひろがりは堤を切った洪水のように盛んであったが、しかし流民団の寄り集まりであるというところに韓信の好みに合わないところがあった。項梁の率いる軍も似たようなものではあったが、項梁という知的な親王が率いるためにまだ古来の正規軍に近いという体がとられていた。正規なものを好むというあたりに韓信の長所と弱点があったともいえる。 かれの軍事能力は、漂泊中の空想のなかで育った。
 おれに十万の軍を持たせれば。 と空想するとき、この卓越した想像力をもつ脳の中に起伏した山河がひろがり、十万の軍が韓信ごのみに部署さ れ、ときに精密にときに粗放に進退し、同時にかれが想像力によって現実以上に現実感をもってつくられた敵軍と音をたてて戦うのである。戦えばかならず勝つ。韓信はつねにこの想像のなかにいた。
 この男に欠けているのは、人との関係を旺盛に微妙に魅力をもってむすんでゆくという感覚だった。このために、 漂泊中も遊侠の仲間には入らなかった。これにひきかえ劉邦は遊侠の徒で、人と人とをつなぐかれなりの大きな組織をもっていた。この組織の中に流民を吸収して膨れあがった男であったが、韓信は流民をひきつけることができ ず、ましてその親方になる性格も能力もなかった。 かれの性格と才能の場合、既成の軍隊に雇われざるをえなかった。それにはより姿のととのった項梁軍に魅力を 感じ、項梁が准河をわたったとき、その軍に投じたのである。流民団をひきいて合流するという形でなかったため に|いわば個人的な就職であったためにその処遇は卑かった。
 項梁が戦死した。ひきつづき韓信は、項羽に仕えた。韓信がたとえ百人であっても流民団の長であれば項羽もあるいは謀将の范増も多少はその視野に入れたにちがいない。項羽も増も、この点、ぬかった。かれらは韓信の雄大な肉体的特徴を知るぐらいで、肉体の内部までは関心をもたなかった。人才に対する鈍感さは、逆にいえば項羽軍の特徴でもあった。男は項羽ひとりで十分であり、智は范増ひとりで十分であると思いこんでいる項羽軍首脳にとっては、器才のある者を常に探さねばならぬという必要など頭から認めていなかった。


 韓信はさかんに自薦の運動はした。しかし項羽や范増からすれば、この准陰の男はその大き な図体を使ってせいぜい護衛の下級士官を務めていればいいというのが大体の認識だった。 韓信は、鬱屈した。
 無名の韓信が、咸陽の町を歩いている。風が強かった。項羽軍が放った火は、幾団もの炎になり、その火が北へ奔るかと思えば、西へ襲いかかった。あるいは沖天をめざし竜のように旋動しつつ馳せのぼったりした。 「このなかにあって韓信は炎と遊んでいるようにあちこちを縫い歩いていた。ときに火煙が韓信に襲いかかったが、 そのつど獣のような敏捷さで逃げた。しかし概して閑々と歩いており、火のまわりにいながら炎がやって来ない方角を風に先んじて見つけた。頭を使っているというわけではなく、皮膚から爪の先まで含めた全身の感覚でごく自然にそのように動けるらしかった。
 いつのまにか宮殿や官衙の街から遠ざかり、富商の屋敷町の一角にまぎれこんだ。ここでも、各所に火が上がっており、火がまわると掠奪兵たちは鼠の群れのように去った。 (おれも、なにか奪ってやろうか)と思ったが、韓信はなにを奪りたいということもない。ただ料理の上手な奴僕でもいればそれに鍋を担がせてときに旨いものを食いたい、と思い、そう思いつつある屋敷のなかに入りこむと、塀一つで隣家がすでに燃えあがっており、走って寝室の一つに入った。すぐ高床があった。床に手をふれると、内部の坑(オンドル)はすでに冷えて いた。床の下の坑の中で、なにか気配がした。(人だ) と思ったときは、韓信は数歩飛退いていた。自分には害意がないということを示すためにまず「自分は准陰の人間である、名を韓信と言い、項羽の郎中である、と名乗り、もしあなたさえよければ自分の僕になってもらえまいか」。兵たちに殺されるよりましじゃないかとまでは言わなかったが、韓信の円やかな声とその誘いには無害な印象があり、相手には十分通じたはずだった。坑のなかから煤だらけになって這い出てきたのは、女である。

  (女か)韓信は一方で失望し、一方では女でもいい、とあきらめた。しかしよくみると、十六、七のむすめで、細い切れ 長の目が白く光っている。韓信は相手の容貌から羌族(qiāng族)の血をひいているらしい、と思った。が、元来、秦のこの関中という地は羌人の草原に近いために歴史的に交渉や混血がしげく、関中人(羌人)はどこか楚人に似ている者が多 い。羌人とは、チベット系であろうか。
 (媒を拭えば或いは女のなかの玉であるかもしれない)と思ったが、韓信はことさらに心を動かさない。韓信は自分がたてた目的に拘束されるたちで、たとえ女であれ、 当初の考えどおり下僕にしたい。「この家のどこかに褐がないか」というと、女は悟りが早く、どこからか下男の着るような布子に粗い毛衣を纏ってきた。痩せて背が高いために少年に見られなくもなく、すくなくともこの状況下で街路を歩くには少年の人体にしたほう が安全だった。
 女は、口をきかない。唖かもしれないと思ったが、韓信がきくと、点頭したりかぶりを振ったりする。それによると女はこの屋敷の娘か姪のようで、なにかの事情で逃げ残ったらしい。韓信はそういう育ちであることに頓着せず、女に大きな鍋を背負わせた。
『羌 <qiāng>よ!』 と、呼んでみた。
 いったん呼んだ名を、この女の呼び名にした。 「いつでもいやになれば逃げろ。しかしわしについているかぎり、保護してやる」。韓信は本気で言った。




          ―次週へ続く―