嬴政 嫪毐の乱を平定、戴冠の大儀式を挙行。 |  今中基のブログ

 趙高は数ヶ月来ずっと、秦王の雍城への行幸のために準備をした。一昨年、秦王嬴政が二十歳の時 に、もともと雍城に帰って戴冠式を挙行する予定であったが、その年巨大な彗星が東方に現れ、また 西方にゆらゆらとあとを曳いた。宰相呂不韋は不吉であると思い、長信侯嫪毐もまた絶対に吉兆にあらずと思い、式典の挙行をしばらく延期することを提案した。その結果、秦王は成人の頭に載せる帽子をかぶることはできなかった。その後、彗星は時に隠れ時に現れたため、式典もまたそのまま延び延びになった。載冠式が挙行されないので、秦王は一つに剣を佩びることができず、二つに結婚することができず、三つに自ら政治を行うこともできなかった。
 秦王が二十三歳になると、式典をさらに延ばすわけにはいかなくなって、載冠式は慣例に基づき、嬴政その年の四月に古都雍城の先祖恵公が建てた蘄年宮(陜西省鳳翔南部)で挙行されることが決定した。


その年、天にはまだ彗星が出没したけれども、人々も見ても見えなかったとして、口を閉ざして話題にしなかった。
 当日、秦王は文武百官を率いて咸陽から威風堂々と雍城へ赴いた。そして秦王のために鞭を振るって車を御したのはほかならぬ趙高であった。 彼は生まれながらに、まさしく秦王の像であった。物心がついて以来、彼が知っているのは秦王だ けであり、父母がいることも知らず、秦の宮殿があることのみを知っており、家があることは知らなかった。自分より十歳近く年少の秦王に対して、彼はずっと本能的に一種の恐怖を抱いていた。この 世界においては、彼よりも秦王を理解している人は誰もいないが、しかし彼もまた秦王が一体何を考えているのか分からなかった。彼は秦王が疑い深く、酷いことだけを知っているが故に、秦王のために、これまで力のおよぶ限り努力し、細心で慎重に仕事をしてきた。

 趙高が天子の乗り物の手配を上申しに行くと、秦王はあまり多くを語らなかったが、ただしんがりの鐵甲近衛騎兵を六百人から六千人に増やすよう命じた。
 このように増員すると、本来十里にもながながと続く隊伍がさらに二十数里に長くなった。趙高はあえてその理由を聞かず、秦王が判断し手配することを任せた仕事は、彼は厳格に徹底してその通りに実行し、決していい加減にはしなかった。すべての手配が整い、四月六日の日の出の刻に出発することになった。 秦王が行幸する車の隊伍は壮観であり、空前の規模であった。前方は銅羅と太鼓を持った先頭が道を開き、六百の矛を挙げ、盾を持つ御前の護衛兵がぴたりと付き従った。後方は六百人の旗隊であり、一面の黒色の旗と幟が、天を覆い日を遮った。つづいては常時引率する百官の隊伍であり、宰相、尚書(長官)から御史(秘書)、司馬(軍政役)、大夫(医者)まで官吏の位階の序列によって配列され、背の高い人から低い人まで合わせて六百人であった。その後ろには前後各六百人の宮廷の近衛兵であり、 全員が黒い鉄兜と黒い鎧、長い鈴と短刀を身につけていた。宮廷の近衛兵の中間は、六十人が持ち上げる秦王の御興であり、黒色の冠と車の覆いがあたかも龍が雲水に遊ぶかのようにきらきらときらめいていた。さらにその後ろは、中宮、女御、女官が続き、しんがりは六千人の鐵甲近衛騎兵であった 意外にも、その日に大事件が発生した。 朝まだき、出発する大隊の人馬が早々と宮殿の門外で集合を完了し、あたり一面を真っ黒に埋め尽くした。人々は静かに声をたてず、咳をする音と痰を吐く音以外は、ただパタパタと旗のはためく音と ひとふた声の馬のいななきが聞こえるだけであった。


 日が東方に出て、先に一面の赤い霞が浮かび漂い、続いて四方を射る無限の黄金の光となった。 人々はとっくに立ち疲れて、ただ秦王の出発命令を待つだけであった。

 秦王はこの時、もの憂さそうに広く大きな玉座の上で斜めに寄り掛かり、微動だにせず大殿の前の香炉を見つめてぼんやりとしていた。何かを考えている様子であったが、出発の命令は発しなかった。 人々は外で待ち続け、いぶかしく思い宮殿の中で何事が起きているのか知らなかった。朝早くから寒風の中で立ち続け、今は太陽に照りつけられていた。
数人の年とった老臣は、いささか耐えきれなくなり、すねを震えさせはじめた。数人の妃や女官もまた日に照りつけられて、顔中の脂粉が汗にまみれてしまった。

 趙高は宮殿の門の外に立って、何回もあたりに気を配り見回していたが、思い切って御前に行って尋ね用途はしなかった。
 そうこうしている間に太陽が頭のてっぺんにくる頃、突然甲冑に身を固めた将兵の一隊が東門より飛ぶように走って来るのが見えた。近づくにつれ、先頭にたって指揮をとっているのは近衛武官の蒙武であり、速足で広間の階段を駆け上るのが見えただけだった。彼は大殿の門外でひざまづき、両手で洪手しながら報告した。
 「大王にご報告申し上げます。賊臣嫪毐はすでに逮捕され、その残りの徒党衛尉竭、内史律、佐竭等もまたすべての者を手捕りにしました。」
趙高はそれを聞いてびっくりして、心底驚き怪しんで秦王を望み見ていた。秦王は態度を変えることなく手を振って、蒙武を下がらせ、しかるのち身体を起こして命じた。
 『出発!』 

 雍城に着くと秦王は蘄年宮には入らず、あらかじめ命じたとおり蒙武に六千人の鐵甲近衛騎馬隊を率いて皇太后が居住する大鄭宮をぐるりと包囲させた。日暮れ時になって、蒙武が再び帰ってきて、皇太后はすでに萁陽宮へ移転させ、二人の反逆のガキ共も麻袋に入れられて、殴り殺されたと報告した。
 その夜、秦王は夜を徹して眠らず、寝殿をしきりに行ったり来たりして 何かを考えているようであった。趙高は怠けることなく、恐れおののきながらも門の外で命令を待ち続けた。宮殿の中は一晩中 灯火が非常に明るく、将軍と兵士が出たり入ったりして、それぞれが顔中に殺気をみなぎらせ、衣服には血がついていた。 明け方に、秦王は趙高を呼んで、すみやかに通告文を起草し、嫪毐の反逆事件を天下に明らかにするよう、彼に命じた。 趙高は命令を受けると、汗が背中じゅうを流れた。この命令は彼を大いに困らせた。彼は天子の乗り物を手配し、交通を指揮することについては玄人であったが、しょせん正式の教育や訓練を受けたわけではなかった。ふだんは運筆で体裁をつくろうことはできたが、彼の作文能力は言葉が文章として繋がらない程で、また学習体験を記す程度の能力はあったけれども、公文書を起草するのはいささか荷が重かった。まして、今回の事が突然起こり、内情の真相がつかめず、彼は考える時間がまったくなく、どのように対処してよいのかさえ分からなかった。
 焦っているうちに、彼は李斯を思い出した。

 あの夜、李斯が秦王の面前でただ宰相呂不韋の名前だけを口にし、自分が推薦したことを言わなかったことは、彼の心中をはなはだ不倫快にしていた。李斯が明らかに朋友の恩を忘れており、河を渡って橋を壊す類の自分だけうまくいったら他を顧みない人物であると思った。しかしその後、秦王が 突然雷のように激怒したことで、幸いにも李斯が秦王の面前で自分のことを言わなかったことが、内心喜ぶべきことであり、さもなければ秦王は疑い深く、きっと彼を巻き添えにしたはずであった。このことが趙高の心中をさっばりとさせた。
 趙高が李斯を寝台から引っばり出した時、李斯はちょうど夢を見ていた。彼はほんやりとしてはっきりしないまま事件のいきさつを聞き終わると、すぐに目覚めて、指摘して語った 「嫪毐が誅されるのは、必ず殺さなければならない罪があるからです。通告文には細かくその謀逆の罪状を、少なくとも八条、最もよいのは十条を列挙してこそ、初めて天下を信服させることができるのです。一に謀反の下心を抱いたこと、秘密裏に反逆集団を結成したこと、二に御印を偽造し、公印を非合法に彫ったこと、三に士卒を動員し、暴動を起こしたこと、四に「義父」と不当に称し、陰険悪練に攻撃したこと、五に生活が堕落し、金銭を浪費したこと、後はもう数条考え出せばそれでよろしいかと思います・・・・・。」

 趙高はそばで聞いており、続けざまにうなずき、喜んで心服した。

  「皇太后のことについては、秦王のイメージと朝廷の機密に関しますので、言及しないわけにはいきませんが、起草するにあたっては軽率であってはなりません。」李斯は続けて語った。「嫪毐の罪は万死に値するべきですが、ただ罪は、皇太后をたぶらかし惑わしたことにあり、宮殿内の道徳の乱れ、という外部の噂は断じて信じるべきではありません。通告文の類のものは、みな保存されるべきものですから、起草者は歴史に対して責任を負うべきです。秦王が激怒されて、皇太后のことをあえて諫言する者は、突き刺してこれを殺す! と言われましたけれども、私が思うには、あの人たち母子は早晩初めのように仲よくなられるはずです。血はつまるところ水より濃いものでありましょうから。」
 趙高はもともと聡明な人物であり、一度手ほどきしてやると、すぐに分かるようになった。 二人は灯火を高く掲げて夜通しで熟考し、空が明るくなる頃には通告文を起草することができた。 趙高は、李斯が自分の一生で一番好い朋友であると感じた。 通告文の草稿を上申しに行ったところ、秦王は読み終わって非常に満足し、いくつかの文字を改め、 すぐ語令を下し、各段階に伝えられていった。
 載冠の大儀式は予定通り挙行された。
 趙高は後で秦王が通告文を訂正した部分を詳細に調べてみた。彼は「賊臣嫪毐が乱をなし、兵を送って蘄年宮を攻め、王を殺そうとした。王は文信侯、昌平君、昌文君に命じ兵を送り、乱を平定した。」 の一文の中で、秦王が文信侯を黒筆で抹消したことを見つけた。
 この文信侯とはほかでもなく、宰相呂不韋のことであった。